2009年04月29日
マサイ族の性 ④ 性欠乏封鎖による集団統合
※アフリカでの女性器切除の分布図
マサイ族の性について追求してきましたが、今回はなぜ女子割礼するのかについて考えてみました。
アフリカではマサイ族に限らず多くの部族が男子だけでなく女子割礼も行なっています。
マサイ族が暮らすケニアの北側、スーダンにおける女子割礼の状況を報告した記事を紹介したいと思います。
女性器切除の問題を取り上げている小池彰氏が、スーダン人の父親を持つ女性からスーダンの状況を聞き取った記事【スーダンにおける女子割礼】からの引用です。
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(以下引用)
女子割礼について日本の方はあまりご存じないと思いますので、少し説明させてください。割礼そのものは、イスラム教以前からすでにアフリカに存在していました。男子の割礼と異なり、女子割礼は、男性優位の世界の中でおこなわれています。女性は力を持ってはいけないのです。それなのに男性性器の名残として、クリトリスがあります。だからクリトリスは悪魔のシンボルといわれています。出産の時、赤ん坊がクリトリスに触れると、死んでしまうという言い伝えまであります。
割礼には約4種類のタイプがあります。スンナ割礼、陰部摘出、陰部封鎖、陰部刺切です。スンナ割礼は、陰核包皮を円周状に切除することです。陰部摘出は、包皮のみでなくその他の部分まで含めて切除します。陰部封鎖は、切除する部分の大きさは地方によって異なりますが、切除した後、膣下端を完全には塞がらないようにしながら、切除部分を縫いあわせたり、癒着させたりします。癒着させるためには割礼を受けた子どもの太股を縛り、何日間かそのままにしておきます。陰部刺切は会陰部を裂いたりもします。
女子割礼をおこなうことは、なぜ男にとって必要なのでしょうか。宗教上のこととか、昔からの習慣だともいわれていますが、それだけではありません。男性にとって女性は性欲を持ってはいけないのです。割礼により女性の性欲をなくし、ほかの男に走らないようにしようとしているのです。女性は女性で、男性に快楽を与えるためはこの行為が必要だと思っています。つまり、男はいつでも自由であるのに、女は小さいときから男に従属しなければならないという考え方なのです。
割礼を受ける年齢はまちまちで決まってはいません。ただ、女の人がその行為をおこなうので、あまり大きくなると、女では抵抗できないよう体を押さえることができないので、小さいときにおこなうのが普通です。私の従姉妹二人は、12才と14才で受けました。フランスのスーダン人の子供の例ですが、生後3週間で受け、出血多量で死亡したこともあります。また、妊娠後割礼を受ける場合もあります。
(以上引用終わり)
本来、男女の性充足は集団内での活力源となるものですが、マサイ族のように男女とも性充足を封鎖して性を生殖目的に特化したり、スーダンの事例のように女性から性欲を奪い取るのは何故なのでしょうか。
アフリカのサバンナにおける自然外圧の高さに加え、部族間の略奪闘争を経て集団が私権性を有していることがベースにあると思われます。
特にマサイ族は牛の遊牧によって、蓄財意識、私有意識は高い状況になっていると考えられます。
そのような状況下で、集団統合を実現し集団を維持していくには、性欠乏を元に女性が力を持ち男性を引き寄せ、集団よりも蓄財意識が高まり集団が破壊されていくことを何としても防がなければならなかったのではないでしょうか。
規範の共認という観念レベルでは女性の性欠乏から発生する私益性を封鎖することが出来ず、女性器切除という肉体改造によって強制的に女性から性欠乏や性の主導権を取り上げることで、集団統合を実現していたのだと思われます。
そして割礼しないと女性は結婚できない(集団内で生きる場がない)という規範から、マサイ族のように幼い未婚のうちは性関係=性充足を経験したとしても、女性も集団規範として割礼を受け入れていた(一人前の女になる)のだと思います。
婚姻前(割礼前)の女性が性関係を持つのは、子供を生むにはむしろその方が安全だったのかもしれません。
さらにマサイ族では、猛獣に立ち向かうなどの勇士資格の高さによって闘争集団としての役割共認を集団統合の要とし、厳しい外圧に向かうために男性も性欠乏を封鎖してはじめて、集団維持が出来たのだと思われます。
現在の我々からは虐待や奇異な風習のように見えますが、人類が集団統合を図るには、性を集団として制御することが不可欠であることをこれらの事例は教えてくれているのだと思います。
- posted by sinkawa at : 2009年04月29日 | コメント (5件)| トラックバック (0)
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>ホモ・エレクトスやその子孫たちも、言語をマスターする前に手を使ったコミュニケーションをマスターしていた可能性がある。
というのは、サルも表情や身振り・手振りでコミュニケーション(共認形成)していたので、その延長での話しなのか、「生得的な器官」ができるまで完成(マスター)されていたのか、が分りにくかったです。
身振り・手振りでは足りないので、言葉が(文法も)発明されたと思われるのですが…。だとすると手話もサルの身振り・手振りとは異なり、本質的に“言葉”だということになります。
考えさせられ面白かったです。続きを楽しみにしています。
>人間の精神は何としても情報を共有しようとする。
この言葉が印象的でした。
私たちの脳内に、言語を操る特定の箇所があるという仮説に違和感は感じません。それが、進化史のどこかの時期に、DNAレベルに刻印され、人類皆のものとなったのでしょう。生まれながらに持っているというのは、そういういことだと理解しました。
だとすると、言語機能を獲得する以前に、私たちの脳は「何としても情報を共有しようとする。」性質を持っていたことになりませんか?
そのような強い動機づけ、すなわち、情報共有しなければ生きていけない外圧が、常にかつ長い間、作用していたということだと考えます。
大杉さん、コメントありがとうございます。
>サルも表情や身振り・手振りでコミュニケーション(共認形成)していたので、その延長での話しなのか、「生得的な器官」ができるまで完成(マスター)されていたのか、が分りにくかったです。
>考えさせられ面白かったです。続きを楽しみにしています。
最近、図書館で『言葉は身振りから進化した』という本を見つけて借りてきたので、言葉と身振りとの関係が判ったら続きを投稿する予定ですのでよろしく。
hayabusa さん、こんにちは。
>だとすると、言語機能を獲得する以前に、私たちの脳は「何としても情報を共有しようとする。」性質を持っていたことになりませんか?
>そのような強い動機づけ、すなわち、情報共有しなければ生きていけない外圧が、常にかつ長い間、作用していたということだと考えます。
そうですね。サルは共認機能は発達しているのに、言葉の獲得に到らなかったのは、外圧の強さが圧倒的に違ってたということでしょうね。
共同体社会と人類婚姻史 | 「言語は人間が持って生まれた生物的な器官である」
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