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2013年03月29日

日本婚姻史に学ぶ共同体のカタチ シリーズ2‐6 「武家社会の本源性は、縄文女によって継承された」

幕末、初めて日本に来た欧米列強は、日本の支配者層である武士階級の質素・倹約ぶりに驚嘆したと言われています。
縄張りを廻る武力闘争の結果、身分による序列統合社会となったという点では、日本も西洋社会と同じです。しかし、西洋は極端な身分格差を形成するのに対して、日本は中世以降、格差の小さい社会を志向します
日本の支配者層の歴史を遡ってみると、平安時代は公家社会ですが、鎌倉時代からは武家社会に移行します。公家社会では、宮廷の中で優雅な遊びに打ち興じているのに対して、武家社会は後に武士道を生み出し、闘争規範を確立していきます。
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【公家社会】(画像引用元)            【武家社会】(画像引用元)
★同じ支配階級でありながら、この違いはどこからきているのか?
今回は、公家社会・武家社会の出自を紐解き、婚姻史の視点から「日本の共同体のカタチ」を探っていきたいと思います。
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『日本を守るのに右も左もない 13/01/31』 天皇制国家の源流まとめ2
日本人の基層をなすのは、3~1万年前にスンダランドからやってきた縄文人である。そこへ、2500年前~2200年前、中国での戦乱から逃れてきた江南人(倭人)が流れ着き、混血して弥生人が生まれる。
※秦の始皇帝から逃れてきた徐福一派は、この江南人の系統と考えられる。
 ・縄文人+江南人(中国南方出身)=弥生人次に古墳時代(1750年前頃から)には、朝鮮半島の北方部族(扶余族・高句麗)の南下に押し出される形で、韓人(主に百済人、伽耶人)が、西日本にやってくる。同時期東日本には、高句麗人がやってきて縄文人と混血する。
 ・弥生人+韓人(扶余族+倭人)=西の古墳人
 ・縄文人+高句麗人(扶余族)  =東の古墳人この人種的混血状況が、東日本と西日本の民族的気質の違いを産み、東の古墳人の中から武士が生まれてくる。西の古墳人は、葛城ネットワークから天皇制国家を産み、大陸の国家制度を真似た律令制を導入する。中世以降、武士政権時代には影を潜めながらも、近代になってそのリバイバルというべき明治維新となって復活します。

上記から、弥生人と韓人(百済人・伽耶人)の混血から、天皇を頂点とする公家社会が形成されたことがわかります。一方、武家社会は縄文人と高句麗人との混血が基礎になっています。
高句麗人が日本に渡来した事実はあまり知られていませんが、故・司馬遼太郎氏も対談の中で、『朝鮮半島の住民で騎馬能力があるのは常識的に考えて北の方の高句麗です。この高句麗と日本とは非常に密接な関係があります。そうでなければ、坂東武者のあのたけだけしい騎馬能力は説明がつきません。』と述べています。
※高句麗では、軍馬の調教所を「戸(へ)」と称します。そして日本では、津軽から関東にかけて、一戸、二戸、三戸・・・八戸、十四戸、坂戸など、沢山の戸があり、大量の軍馬を養っていました。
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【高句麗の壁画】(画像引用元)     【群馬県で出土した6世紀の埴輪】(画像引用元)
当時の朝鮮半島は、南部の百済・伽耶・新羅と、北部の高句麗とが互いに争っており、日本に逃れてきた百済・伽耶人を追って高句麗人が渡来したと考えられます。そして渡来した高句麗人は、馬と共にやってきた武装集団であるとが想定されます。この場合「高句麗の男」と「縄文の女」が融合していくことになります。従って、武家社会を紐解くには、基層となる高句麗人・縄文人の気質や婚姻様式を探る必要があります。
★高句麗人は、どのような気質をもっていたのか?
先ずは、AD612年、隋が高句麗に攻め込んだ時の史実から、高句麗人の気質を探ります。高句麗は、隋の300万人の大群を撃破するのです。

『最強 高句麗軍団出撃(リンパ球バンク株式会社ブログ)より』
高句麗の建国精神は、周囲を大敵に囲まれ、絶望的な状況から先手、先手と機先を制し、決して諦めることなく活路を拓いた激しい闘志と戦略性をもつものでした。
隋の大軍は300万人。対して都・平城を守る高句麗の精鋭部隊は2万数千。高句麗は、全ての民が心一つに戦い、知略の限りを尽くし、この未曾有の大軍団を、ほぼ全滅させます。 隋は、わずか38年の短い歴史を閉じることになります。
では、7世紀の古代、300万の大軍団。どうやって、未曾有の大敵を壊滅させたか?
大軍の弱点を突く。大軍故に、大量の兵糧を必要とします。普通は、兵力の少ない側が、要塞に籠もり、兵力に優る攻め手の方が守り手を兵糧攻めにするのですが、高句麗は、相手の兵力の多さを逆手にとり、徹底した兵糧攻めを仕掛けます。
まず、徹底して水・食料源を断ちます。焦土作戦と称し、敵軍の侵入を受けると、国土の田畑を焼き払い、森や林に火を放ち、井戸には毒を入れて敵が利用できなくします。さらに、敵にとっての、あらゆる軍需物資調達の可能性を排除します。通常、農民は、敵が攻めてくれば、少しでも大過なく戦争が終わることを望み、敵に兵糧を差し出してでも媚を売り、或いは銭を得て、領主が挿げ変わったら、新しい領主の支配下に組する、こういう行動を取ります。
しかし高句麗の民は、自ら進んで個人の私財を焼き払い、或いは、戦争に使えるものは城に持ち込み、全員が戦力として、国難に立ち向かいました。実際、全ての民が篭城できるよう、世界に類例を見ない巨大な城塞システムを構築していました。

高句麗の集団性・闘争性は、後の武家社会に通ずるものがあります。
★高句麗の婚姻様式はどのようなものだったか?
同じツングースの夫余族である烏恒・鮮卑が父系であるのに対して、高句麗は母系色を強く残しています。後漢書の高句麗伝によれば、『婚姻は妻問い婚で、子供が成長した後に(夫の家に)連れて帰る。』と記述されており、母系妻問い婚であったとされます。
さらに、周書の高句麗伝によれば、『風俗は淫を好み、それを恥とはしない。遊女がいるが、夫の無い普通の人である。婚礼には財幣(金銭や贈物)は省いて無くし、もし財を受ければ、これを売婢と言われ、習俗では甚だこれを恥とする。父母や夫の喪は、服喪の制度は華夏(漢族)と同じ。』とあり、婚姻に対する私権的要素が弱かったと考えられます。
★縄文人の女の気質や婚姻様式はどうであったか?
略奪闘争を経験していない縄文女の気質については、同じく略奪闘争を経験していなかった南国・タヒチとの類似性から、以前、本ブログで追求したことがあります。

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・島のヴァヒネ(※娘の意味)たちは、たとえ異邦人であろうと、みずから進んでその豊満な肉体を与えてはばからない。彼女たちは島を訪れる男性の誘いには、なんのためらいもなく応じるし、ときには彼女の方から積極的に誘いさえする。
・島の人々がよろこんで自分の妻、娘、妹など、ピチピチした女性を船乗りたちに提供するのみ見て、目を丸くした。そして、キャプテン・クックやフランスの探検家ルイス・A・B・ブーゲンビルたちも、ヴァヒネの積極的なセックス攻撃には、もろくも屈伏しているのである。
※画像は、ゴーギャン作『タヒチの女』

略奪闘争を経験していない縄文の女たちが、高句麗の男たちを受け入れていったことは、容易に想像が出来ます。また、高句麗も母系の妻問い婚であったことから、縄文社会と女たち容易に融合していったと考えられます。
日本で縄文的・共同体的な気質が強く残ったのは、地域で言えば東北・東日本、時代で言えば武士政権時代においてより強いと言えます。この基層には縄文人と高句麗人があり、夫々が婚姻様式において親近性があったこと。そして縄文人の素朴さと、高句麗人の胆力が融合した結果であると考えられます。 

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