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2013年04月04日

【共同体の母胎は女性が生み出す充足空間】~4.みんな期待・みんな充足に溢れていた日本

前回は、未開民族をはじめ、諸外国の男女の性、男女統合について、見てみました。
今回は、日本にスポットを当てて見て行きたいと思います。
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性を肯定し、みんなで共有し、みんなの活力へと結びつけていた民族は、未開民族に限った話ではなく、日本でも地域によっては、ほんの第二次世界大戦前まで、少なくとも江戸時代まで遡れば、全国で見られます。食料が豊富で、他民族の略奪や戦争が殆ど無く外圧が緩かった日本は、(食料の確保や同類圧力をどうする?と言った)闘争課題よりも、集団の維持をどうするか?といった課題が主要なみんな課題であり、
「集団の充足⇒活力をどうする?」という統合課題があり、最基底部には性の充足があり、色んな慣習や規範(掟)が、村落共同体の中で育まれていきました。
現代、みんな期待・課題の最基底部であった、性・婚姻は、個人期待・課題となり、その分、充足も個人レベルへと閉塞していきました。
では、かつては、どうであったのか見て行きましょう。
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1■村落共同体に委ねられていた集団自治
集団の自治、すなわち自らの生きる場を、自らがつくっていることが、あらゆる点(場)で見受けられます。
子供を一人前に成長させてくれる年中行事や掟、教育に至るまで、集団内でどうするか?考えられています。
その結果、社会が秩序化されていました。
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江戸時代の思想 共同体に立脚した江戸幕府 リンク

江戸時代のお上の「民の生活第一」とは、民の自主管理に任せることだった。
江戸時代までの権力者は、最低限必要な法度等を定めるのみで、後は大衆の共同体の自主管理に委ねていた。その法度も富や権力の集中を防ぐことに焦点が置かれていた。
共同体における共認充足こそが民の最大の期待であり、それを破壊しないこと、制度や法律でがんじがらめにしないことが民にとっては何より望ましいことだった。
このように、日本の農民も商人も共同体性を残しており、自主管理能力が極めて高かったからこそ、社会が秩序化されていたのである。

「自らが村を守っていく自主性」を育んだ共同体教育 リンク

たとえば「子供組」は、普段は遊び仲間と変わらないが、年中行事や祭礼の際には特定の役割を果たした。最年長の指揮によって行動し、厳しい上下関係や一定の掟の中で指導・教育され、掟を破れば仲間はずしなどの制裁もあった。
若者組は、地域における祭礼や芸能・消防・警備・災害救助・性教育・婚礼関係などに深くかかわり、その責任も裁量も大きなものだった。いったん若者組に加入すれば内部事情は一切口出ししない決まりで、周囲の大人たちも口出しすることは無かった。
このように、江戸時代の子供たちは、大人の仲間入りをするまでの間、様々な人々との重層的な関係や集団の中で育てられたのであり、そこには大勢の人間が深くかかわって一人の子供を育て上げていく、網の目のような教育システムがあったのである。
江戸時代までの(地方によっては、昭和の20年代初期まで残った)農村地域の共同体には、少年少女を一人前の男、女に育てる仕組みが備わっていました。地域における祭礼や芸能・消防・警備・災害救助・性教育・婚礼関係まで様々な役割を担わせ、「自らが村を守っていく自主性」を育んでいた共同体教育。

新たな時代の教育制度の提言 江戸時代の主体的な勉強意欲の秘密 リンク

庶民は実学としての「読み・書き・算盤」を、身につけておくべき素養として受け止め、充足基調を背景とした“みんなで学習”という充足期待を醸成し、それらの期待を受けた識者が次々と寺子屋を興していった

2■婚姻制度は男女(みんなの)充足期待の上に成り立ち、集団を維持
現代では、集団は家族単位となり、特に遺産相続に限った話ではないが、誰の子供かということが重要視されます。しかし、共同体社会では、生まれた子供は「みんなの子供」であり、集落全体が一つの大家族でした。だから、みんなが、生殖・子育てをどうするか?を考えました。
共同体の中で、最も重視され、みんなの期待であり、充足の土台であった“性”は、みんなの課題であり、男女老若男女問わず、性の役割が与えられていました。婚姻システム(規範)も、共同体の中で、最もみんなが充足できるシステムが生み出されていきました。夜這い婚やオコモリ、そして、かつての祭りは、踊りや歌を通してみんなと一体となる共認充足の延長であり、性の充足もみんなと共有していました。
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性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつ リンク

庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚をとわず、性の役割が与えられた。
子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。
このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた。

●夜這い~みんなが性的満足を得られるシステム 
夜這い婚 リンク 

「夜這い」の起源
夜這いは、ムラの置かれた現実の状況(特に経済状況)に対して、村落共同体という自治集団を維持していくための実質的な婚姻制度、もしくは性的規範であるとする見方です。
表向きは(一応)一夫一婦制ですが、実態的にはその制度は解体され、代わりに皆が性的満足を得られるシステムで補完されていた

夜這い婚の類型 
●オコモリ~性的に成熟した年配女性の性の手ほどき=筆おろし。期待応望の充足を積み重ね
オコモリ ~女性から若衆への深い期待~ リンク

若衆が「一人前」になる道筋には、男性同士の関係で学ぶ闘争的な側面も多分にあります。しかし、村の存続という意味では女性との充足関係=性も重要です。そこで採用されたのが、性的に成熟した年配女性の性の手ほどき=筆おろし。女性の特徴を自覚し、性教育に足る正しい知識と経験を身をもって伝授するのは、若い女性ではどうしても役不足です。
年配女性は、日常的に一人前の男たちに助けられ、また、自分も助けながら期待応望の充足を積み重ねてきた人たちです。したがって、男に対する感謝も深い。感謝が積み重なった分、次代の村を担う若衆に対しても深い慈愛=期待をもって接することができるのだと思います。
かつての村落共同体は、女性の充足性が集団を存続させる活力となっている一つのモデルといえるのではないでしょうか。

●まつり~踊りや歌を通してみんなと一体となる共認充足の延長で、性の充足もみんなと共有
日本の婚姻史に学ぶ共同体のカタチ~祭りにみる日本人の最大期待とは?~ リンク

仏教の教えを広め大衆化されるに従い「救済の哲学」から「歌や踊りの充足」が第一価値となり、踊り念仏から念仏踊りと変わっていきます
大陸から入った仏教の観念は、日本では歌や踊りの充足へと変わっていったのです。
踊りや歌を通してみんなと一体となる共認充足の延長で、性の充足もみんなと共有するという文化が、日本では古代から脈々と受け継がれていきます
江戸時代になると、盆踊りは一気に日本全国に広がり、盆踊りの後にはみんなで性も共有するという風習が各地で祭りの様式となります
この盆踊りは、明治時代になると、西洋化を国是とする中で風紀を乱す「乱交」であるされ、「盆踊り禁止令」が次々と発令されます。しかし、みんなの最大期待である祭り(共認充足・性充足)は弾圧することが出来ず、戦後もその片鱗は各地に残ります。

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3■縄文時代から集団みんなで性を共有し、充足と活力にあふれていた
さらに遡ると、江戸時代よりそれ以前の縄文時代から、集団みんなで性を共有し、充足と活力にあふれていたのだと思われます。戦後の日本国憲法によって現在の一夫一婦制度が法制化されましたが、庶民の間では1960年代まで夜這いの風習が残っていた地方もあります。つまり、1万6500年前の縄文時代からの日本の歴史でみると、ほんの50年(0.3%)程度しかなかったのです。
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原初の社会空間(まつり場)は充足発で形成された! リンク

気候風土が豊かで、略奪闘争を経験していない縄文時代前期~中期の婚姻様式<兄弟婚>も、おそらくタヒチと同じように、分け隔てなく性が開かれ、集団みんなで性を共有し、充足と活力にあふれていたと思われます。
集団と集団の関係性の原点である縄文時代
①自然に恵まれた日本では、極限時代に形成された肯定視をそのままに、安心感が関係性の基盤に。
②その安心感を基盤に、他集団とも充足を与え合う関係へと発展。
集団間も、集団内と同じく皆との共認充足を最大期待として統合
④その統合の場=集団と集団を繋ぐ場がクナドであり、原初のマツリ場。

ほんの50年程前までは、皆が充足できるように期待を掛け合っていた リンク

・現代は、婚前交渉のタブーがなくなり、未婚者でも「彼とセックスしている」のが当たり前になっています。逆に既婚者でもセックスレスで、「相手がいない」という回答も増えていそうです。
 明治以降、西洋からの近代思想により一夫一婦の考えが取り入れられ、戦後の日本国憲法によって現在の一対婚制度は法制化されましたが、庶民の間では1960年代まで夜這いの風習が残っていた地方もあります。つまり、1万6500年前の縄文時代からの日本の歴史でみると、実はほんの50年(0.3%)程度しかないことがわかります。
もともと日本では、性に対して開放的であり、戦後のように秘め事ではなかったことがわかります。
 最大の共認充足である性の充足は村の活力そのもの ですから、ムラ全体で性の充足を肯定的に共認し、共同体の規範として、皆が充足できるように期待を掛け合うのは当然といえます。

4■明治時代に制度が導入、でも庶民の間では受け入れられなかった
明治時代に、欧米の法律を元に制定された婚姻制度=一夫一婦制が導入されましたが、当初、庶民の間では受け入れられず、村独自の慣習に沿っていました。しかし、年代が下っていくと強制的な政府(お上)の押し付けと都市部への人口の流入=村落の人口流出によって村の活力は衰退していきました。
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日本における恋愛観念~一夫一婦制の広がり~ リンク

明治時代の開国と共に,家族,婚姻の制度を改正
大正ロマンでは,「自由恋愛」が憧れに
大正ロマンが急停止して,禁欲的な「良妻賢母」に
太平洋戦争の敗戦後は,アメリカ文化が多量に流入。
「見合い結婚」<「恋愛結婚」
・集団の結婚へ期待の下で集団が決定権 ⇒ 個人の自由な恋愛がありその後に結婚する
◆こうしてみると,日本では江戸時代までは「集団」を中心とした皆の期待による役割としての「婚姻」であったのが,明治~大正~昭和~平成と欧米文化の輸入で,「恋愛」にて「個人」が「自由」結婚を決める形態に,急変してきた事が分かります。

5■現在
現在、私権(自分のお金や地位、権力を第一とする価値観)が衰弱し、共認(共に認め合う。相手の充足が自分の充足)時代に入っています。それに伴って性が個人の期待・課題であった時代も終わりを向かえつつあります。そこに、答えが見出せないが故に、性は衰弱する一方となっています。
上記のように、振り返ってみると、性が個人の期待・課題であった時代はほんの50年間でしかなかったのです。
改めて、
性・婚姻は、集団(⇒社会)の根底的な統合課題であるという認識をもつ必要があるのだと思います。
そして、それは、歴史を遡れば、みんなの期待=充足課題として、みんなで担ってきた歴史があります。
現代に当てはめた時に、どういった性・婚姻システムも含めた全てが、みんなの充足に繋がるのか、みんなで考えていきましょう

次回は、みんな期待⇒充足・課題であった性・婚姻が個人レベルに成り、閉塞してしまった現代にスポットを当てて見ていきたいと思います。バブル期、性はある意味開かれましたが、結局、現在の性の衰弱→女子の迷走を生み出してしまいました。
その背景、原因を探って行きたいと思います。お楽しみに!

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