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2014年02月20日

家族って何?シリーズ5 明治時代 ~洗脳と法制化によって民衆は「家」と「国」に嵌め込まれていった~

これからの家族を考えていくために、「家族」というものがどのように形成されてきたのかを調べています。
これまで見てきたように、江戸時代までは、血縁の父子相続を骨格とした家族を形成したのは武家だけで、民衆は村落共同体に帰属し(シリーズ3)、市場化の波が押し寄せてきても村落共同体を守って(シリーズ4)暮らしてきました。
しかし、明治以降、大きな変化が起こります。「国家」と「家」というものが始まったのです。
(ここでいう「家」というのは、現在の「家族」とはやや異なり、父親が絶対的な権限を持ち、それが長男に相続される形態です。)
私たちは「家」や「国家」というのは遥か昔からあったかのように思っていますが、実はそうではありません。
明治までは、「(県ぐらいの大きさの)国」を武家(藩)が治め、「村」を共同体が治めるのが基本的な骨格で、日本という単位の「国家」と民衆の「家」というのは、実は、明治時代の創作なのです。
今回は、この明治時代に創作された「家」と「国」に民衆がはめ込まれていく姿を見ていきます。
明治の「家」は、「旧民法(明治家族法)」によって相続と婚姻に関する絶対的な権限を有する「家長」を定められて確立するのですが、実は、この民法制定以前に、学校教育によって「父母への孝、国への忠」という、家と国への帰属を第一とする規範観念の刷り込み(=洗脳)が行われた背景があります。
当時は、学校教育の一部としての道徳教育ではなく、まさに学校教育の「要」として強力な刷り込み(=洗脳)が行われました。
そして、洗脳教育が完了した明治32年に民法(明治家族法)が制定されたという事です。
明治初年から始まった規範観念の刷り込み(⇒洗脳)教育から、「旧民法(明治家族法)」制定までの政策の流れは以下です。
1.明治12年 「教学聖旨」
2.明治15年「幼学綱要」
3.明治23年「教育勅語」
4.明治32年 「旧民法(明治家族法)」

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1.明治12年「教学聖旨」
明治5年に学校制度が制定されて小学校と師範学校(先生を要請する学校)がスタートしますが、そのわずか3年後の明治8年には、全国に2万4千の小学校が設置されます。(ものすごいスピードです)
学校での教育内容は、当初は「学問」が中心だったようですが、やがて明治政府は規範教育を重視する方向に舵を取ります。
明治12年の「教学聖旨」は、明治天皇から文部大臣に提示された学校教育の方針書で、総論である「教学大旨」と、小学校教育に関する「小学条目」からなります。
以下は「小学条目」の冒頭部分の現代語訳です。

1)仁義忠孝の心は人はみな持っているものであるが、幼少のうちからつちかい育てなくては他の物事ばかりが耳にはいってしまって、それからあとではいかんともすることができない。それゆえ、小学校ではおのおのの所持している絵画によって、古今の忠臣・義士・孝子・節婦の画像や写真を掲げて、幼年の生徒が入校した際にまずこの画像を示して、その行為や事件のあらましを説明し、忠孝の大義を第一に感覚させることがたいせつであって、こうしたならば忠孝の徳性を養成して物の本末を誤ることはないであろう。

★まず「画像」で「忠・孝が第一」へ洗脳
幼年の生徒に、まず「画像」を示して「忠孝の大義を第一の感覚に」させるとは、具体的でわかりやすいですね。統一された教科書や教育方針書が無い時期の、洗脳教育のはじまりです。数ある儒教規範の内「忠」と「孝」が第一の感覚として選ばれていますが、これが明治教育の方向性を示しています。

2.明治15年「幼学綱要」
宮内省が制定した教育の根幹が記載された文書で、6年間に約41,000部が日本中の学校その他に頒布されました。上中下の3冊全7巻からなる大作で、桐箱に納められて大切に保管されていたようです。
文書の構成は以下で、20項目の各規範についてそれぞれ詳しく説明がされています。
①孝行〔親の恩に感謝する〕
②忠節〔国に忠節をつくす〕
③和順〔夫婦はむつまじく〕
④友愛〔兄弟姉妹は仲よく〕
⑤信義〔友人は助けあう 〕
⑥勉学〔まじめに勉強する〕
⑦立志〔決心を固める  〕
⑧誠実〔何事もまじめに 〕
⑨仁義〔人を助ける心  〕
⑩礼譲〔礼儀正しく   〕
⑪倹素〔無駄遣いをしない〕
⑫忍耐〔耐え忍ぶこと  〕
⑬貞節〔節操を守ること 〕
⑭廉潔〔正しく潔白なこと〕
⑮敏智〔機敏に知恵を出す〕
⑯剛勇〔強い勇気を持つ 〕
⑰公平〔えこひいきしない〕
⑱度量〔こせこせしない 〕
⑲誠断〔正しく判断する 〕
⑳勉職〔職場に専念する 〕
「①孝行」のさわりはこう書かれています。

<原文>
天地ノ間。父母無キノ人無シ。其初メ胎ヲ受ケテ生誕スルヨリ。成長ノ後ニ至リ。其恩愛教養ノ深キ。父母ニ若ク者莫シ。能ク其恩ヲ思ヒ。其身ヲ慎ミ。其力ヲ竭シテ。以テ之ニ事ヘ。其愛敬ヲ盡スハ。子タルノ道ナリ。故ニ孝行ヲ以テ。人倫ノ最大義トス。

 

<現代語訳>
すべて人間は、両親があって生まれるのですから、世の中に父母のいない者はありません。わたくし達がこの世に生まれ出て成長するまでの長いあいだ父母から温かい愛情や、数々のご恩を受けて参りましたのですから、そのご恩を忘れず、わが身をつつしみ、まごころをつくして父母につかえて、愛慕と尊敬のまことを尽くすのは、子としての道であります。
このゆえに「孝行」こそが人間の守らねばならない最大の道徳であります。

★血縁の父母に特定した「孝」規範は、共同体規範を追いやっていく
規範はまず、①親への「孝」を説き、次に②国への「忠」、次に③夫婦の「和」へと繋げられています。
まず「孝」ですが、「天地ノ間。父母無キノ人無シ(父母のない人はいない)」という一見もっともな理屈?を使って、父母への孝行が最大の道徳であると説いています。「孝」は儒教規範で本源的な面もありますが、そんな序列的な規範には馴染みのない民衆に対しては、「天地の間には・・」という大上段の理屈から説き伏せる必要があったのだと思われます。
しかしこれは、人々が実際に帰属している「村落」ではなく、血縁の「父母」だけに帰属するのが本来あるべき姿であるとしている訳で、村落への帰属意識については、(おそらく意図的に)排除されていると同時に、血縁の父親が特定できない(夜這いなどの)風習が(間接的に)否定されています。
村落からすれば、学校教育が強制されて労働力である子供を取り上げられた上に、このような洗脳によって村落共同体規範が失われていくのは辛いものがあったと思われます。(実際、農村では、学校を廃止するよう嘆願や焼討ちが多発しました)

★日本国への「忠」規範を洗脳
親への「孝」に続いて、(明治まではなかった)国への「忠」が滑り込んで上位に置かれています。 廃藩置県なら「県に忠」となるはずですが、「日本国に忠」と忠の対象が国家に特定されています。
当時、欧米からの(武力とお金の)圧力に対抗する強力な国家の建設が必要であり、国家への帰属意識(⇒軍隊と国富)を形成するために「日本国」と「忠」が抱き合わされて使われたものと思われます。
ただし、国家への帰属意識形成のためには、この文書だけでは不十分で、明治23年の「教育勅語(天皇のお言葉)」を待つ事になります。

3.明治23年 「教育勅語」
敗戦とGHQ支配までの50年の間、日本国民を導いた天皇のお言葉で、日本人としての規範がコンパクトにまとめられています。学校に石碑や額で恭しく掲げられ、生徒はこの前を通る際は最敬礼し、皆、諳んじておられたものです。
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学校に教育勅語がうやうやしく掲げられています。

朕(ちん)惟(おも)フニ、我(わ)ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、德ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。我(わ)ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此(こ)レ我(わ)ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。爾(なんじ)臣民(しんみん)父母(ふぼ)ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ・・・・


<大変なので現代語訳で>
私(天皇)が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。
我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。
あなたたち国民は、
①父母ニ孝ニ (親に孝行を尽くしましょう)
②兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
③夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
④朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう)
⑤恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)
⑥博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
⑦學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)
⑧以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)
⑨德器ヲ成就シ (人格の向上につとめましょう)
⑩進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
⑪常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法律や規則を守り国家の秩序に従いましょう)
⑫一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ (国に危機があったなら正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう)
これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。
このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。
明治二十三年十月三十日
天皇の署名と印

★教育勅語の重大な欠落
「間違いのない道理」として説かれていますが、よく読むと、教育勅語の規範構成には重大な「欠落」がある事に気がつきます。
教育勅語の構成は、1父母(親)、2兄弟、3夫婦について実感を伴う「家」規範が提示されますが、4友?はやや抽象的、以降は5~10は個人規範が続き、最後は11,12の国家に対する規範で終わります。
欠落とは、「家」(親・兄弟・夫婦)」と「国家」以外の、例えば「村掟」や「町衆掟」、地方自治(かつての藩)etcの集団規範については、あたかもこの世に存在しないかの如く無視され、欠落しているのです。
まるで「家」と「国家」だけが人間社会の全てであるかのようにフレームになっており、これを「間違いのない道理」として説くのは欺瞞なのですが、幼年からこれを暗唱し続けた場合、「家」と「国家」への帰属意識だけが強固に形成されてしまいます。
(教育勅語では、国への忠義は、「幼学綱要」などと違って一番最後になっていますが、これは国への忠義が軽視されているからではなく、①から⑩の全ての規範の全てが最後に国への忠義に繋がるような規範構成になっているからです。)

4.明治32年 「旧民法(明治家族法)」
紆余曲折があって制定された旧民法ですが、そのポイントは「家」と「家長」の制度化にあります。
以下はその骨子です。

①日本国民は必ず1つの「家」に帰属する。
②「家」は、複数世代の親族(血縁)からなる。
③「家」は1人の「家長」と家族で構成される。(家長(=戸主)に納税義務)
④「家長」は、以下の家長権を有する。
・家屋その他の財産権
・家族の居所の指定権(監督権)
・家族の婚姻および養子縁組の同意権(同意がないとダメ)
・去家、分家の同意権
・家督(家長権と財産)相続の決定権
⑤家督相続は以下と想定する。
・基本的に男子とする。
・血縁のものを優先する。
・年長のものを優先する。
⑥家長および長男男子は、兵役を免除

★法制度で民衆は「家」に嵌め込まれた。
教育勅語から10年が経ち、洗脳された子供達が結婚する年代になった時期に、この旧民法(明治家族法)が公布されました。
この法制度では、強力な家長権を有する一人の家長(父親)によってコントロールされた「家」に日本人全員(沖縄を除く)が嵌め込まれる事になりました。
とはいうものの、昭和初期でも、農村では夜這いが継続しており、町でも娘達が旦那のところに奉公へ行って妊娠したりしていた訳で、多くは実態が伴わない形式的なものであったと言えるでしょう。
しかし、この家制度は単なる「教え」ではなく、市場経済の進展によって「お金」の価値(力)が高まると、財産権や相続権が家の実態の権力としてはたらき始めます。実際、土地や家屋、工場などの生産財は、権利書という形で国家の管理が進むと同時に、家ではこの権利書が「家督」として相続されていくようになります。
家長の尊厳に関わる事を「沽券(こけん)に関わる」といいますが、沽券とは当時の日本国が発行した権利書(地券)の事です。
「家」と「国家」は、規範で統合されると同時に、法制度で「私権」が統合されて存在するものだったのです。

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これが沽券(地券)です。大日本帝国政府の証紙で県がそれを証しています。 0701syoko_kara01b.gif

沽券(地券)の発行と並行して土地の登記が始まります。
国家が土地の権利を保証する一方で税金を納める単位になります。

■まとめ
「家」と「国家」への洗脳と法制化をまとめると以下です。
0.まず、明治政府は学校制度によって村落共同体から教育を奪う。
1.学校では、まず「画像」を使って忠・孝が第一へと洗脳。
2.「孝」規範は、血縁の特定の父母だけを大切にし、開かれた性を否定
3.さらに、日本国への「忠」規範をセットで刷り込み。
4.教育勅語の「家」と「国」の規範フレームは、他の集団規範を隅に追いやっていく。
5.明治家族法によって民衆は「家」の鋳型にはめ込まれた。
この間、明治5年~32年までの27年間です。 ほぼ1世代で規範の洗脳から制度までが完成しており、驚くべきスピードなのですが、その背景は何なのでしょうか?
★私権闘争の圧力が「家」を作った。
藩体制を改め、日本が「国家」を建設していったのは、なんといっても外国からの私権闘争の圧力(戦争とお金の圧力)が一気に高まり、それに適応しようとしたものと思われます。しかし、国家だけが体制を変えてもダメで、民衆の末端まで私権闘争の圧力が掛かるようになってはじめて機能します。すなわち、民衆を村落共同体から離脱させて国家に帰属させ、さらに、お金なしでは生きていけない強い私権圧力がかかる仕組みに組み替える必要がありました。それが村落共同体から父子相続の「家」への転換の正体です。
これは、逆に、戦後アメリカが、日本が二度と私権闘争で歯向かう事がないよう支配するために、「教育勅語」を禁止、次いで「家」法制を書き変え(させ)たことからも伺えます。
また、こうした父親の権力が強い父子相続家族は、日本の武家や東アジア(中・韓)だけでなく、大衆レベルでの私権闘争の歴史が古い西欧の方に深く刻まれています。
ファミリー(家族)の語源であるローマ時代の「familiar(ファミリア)」とは、「『主(父親)』が『奴隷』『妻』『子』を支配する状態」を示していますが、この基本構造は西欧家族の原型で明治時代の頃も基本的に同じでした。(西欧が「妻」「子」「奴隷」にも同様の権限を認める現代的な民主主義に転換していくのは、更に市場化が進展した以降になります。)

このような歴史を見ていくと、日本は世界中で最も「家」に馴染みのない国だということがわかります。
今は現代的な民主主義によって、「(血縁の)家族が最も大切」と思いまされていますが、これも「洗脳」の結果である可能性が高い。
この頭の中の「家族」観念から少し距離をおいてみると、実感としては、むしろ、仕事を共にする中で形成される一体感や、災害時にごく自然に血縁を超えて助け合う姿の中に、日本人の本来の(家族よりも深い)紐帯があるのではないかとさえ感じる事があります。
私権圧力が消失していく中で家族の存在意義が薄れ、洗脳の歴史を俯瞰した先に、共同体の姿が透けて見えてくるようです。

by tamura

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