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2017年07月06日

奈良・平安~鎌倉・室町時代の商工業の発展過程

『新しい歴史教科書-その嘘の構造と歴史的位置-この教科書から何を学ぶか?』「第2章:中世の日本」批判19を要約しました。

【1】各地に手工業が発展した背景
①各地に職人が生まれたのは中世前期
各地に様々な職人が生まれたのは、中世前期、平安時代末期から鎌倉時代。
さまざまな専門的知識をもとにして様々な工業製品をつくる「職人」はそれまでは朝廷の諸々の役所や寺社に隷属していた。なぜなら朝廷や寺社以外に需要がなかったからである。
しかし各地で農業・商業が発展すると新たな需要が生まれ、朝廷や寺社に隷属していた職人が諸国を経巡って、各地で工業製品を作り、それを市で売買するようになった。
そして最初は地方の有力者のために生産していたのが、次第に発展していった市を基盤に、多くの人々を対象に生産を行うようになったのである。こうして地方にも専門的な「職人」が生まれた。

しかし、職人は平安時代末期や鎌倉時代において、その仕事を安定させるためにも、また各地の市で製品を有利に売りさばくためにも、有力者の庇護を必要とした。彼らは貴族や寺社にその職人として奉仕する見返りとして、諸税の免除や諸国自由通交権などの特権を得た。こうして貴族や寺社の庇護を受けた商工業者を「神人」「寄人」などと呼んだ。同じ時期に武士という階級が荘園や公領の管理者という「職(しき)」を得ることでさまざまな特権を得ていた動きとも対応し、彼ら商工業者の長は武士でもあった。
職人の力が増大し、保護を受けていた寺社・貴族からも半ば独立し、その仕事の独占権を巡って各地に「座」を結成したのは、中世後期・室町時代である。

②手工業の発展の裏には商業の発展がある

各地での市の発展と各地の市を結んで大規模に商品を運送する運送業者の発展と、大規模な商品交換を可能にするための交換手段(=貨幣)の進化が存在した。平安時代末には各地に手工業が生まれ、その製品がかなり遠隔地にまで運ばれていた。その代表的は瀬戸や常滑の陶器である。有名な奥州平泉の館址から瀬戸や常滑で生産された粗製の陶器が大量に出土している。各地での手工業の発展の裏には、外国貿易の発展も寄与している。京都を中心として各地に刀や紙の生産が盛んになったことも、輸出品としての刀や輸出品としての扇の存在がその背景にある。このように諸国にさまざまな手工業が発展したのは、中世後期・室町時代のことである。

【2】商業の発展過程

①平安時代末の商業の発展の様

大和の国でも諸所で市が開かれていた事は古事記や万葉集からもわかる。また、律令国家の租税体系が、調・贄として様々な手工業製品を要求しており、その中には市で米との交換で流通したものもある。平安時代末には各地の国府(近辺)で定期的な市が開かれており、都市といってもよいほどの集落が発展していた。各地の市を貫いた海路と陸路が整備され、そこで
運送業をなりわいとした商人集団も生まれていた。

この市は、神聖な場所、人と神とが交歓できる場に開かれていた。品物にはそれを作った人の魂が込められていると昔の人は観念していた。それを他の人の所有物にするには、その魂を入れ替えねばならない。それは人と神とが交歓できる聖なる場所でのみ可能だとも考えていた。市が開かれる場所が聖なる場所、例えば寺社の門前や交通の要所(川や湖や海と陸路の出会う場所=異界との接点)だったのは、それが理由である。また、斎日という神をまつる日に市が開かれた理由でもある。

奈良時代までには貨幣は全国的に流通した。しかし10世紀ともなると律令国家の統合力は衰え、国家が鋳造した貨幣は使われなくなり米や布が貨幣の役割を果たした。しかし12世紀に、まず東国において宋銭が流通し始め、後には西国にも広がり、鎌倉時代には全国的に流通するようになった。

②鎌倉時代における商業発展の様

斎日に行われていた各地の市も、月に三日の斎日に開かれるようになった(三斎市)。農民も領主も職人も商品を持ちこむようになり、大きな市では、常設の家に住み商業に従事するものも現われた。都市の誕生である。全国的な商業の発展とともに、各地に職人集団が形成され、商業の独占を巡って争いが生じる。寺社や貴族から神人や寄人という商業上の特権を得
ていた集団に対して、全国的な特権を得て商業上の利益を独占しようとした集団がある。後者は、都の役所に役を納めることによて「供御人」という身分を得、それによって各地の神人・寄人を統制しようと画策した。

この時代には金貸し業も誕生していた。彼らの多くは有力な寺社の神人・寄人であり、神に納められた初穂を貸し付ける形で金融業を開始した。さらに、商品の運送を生業とし、かつ年貢の運送を代行する業者が生まれた。土倉・酒屋・問屋や馬借である。

幕府も朝廷も商業を統制し、そこから諸税を得ようとしていた。次第に寺社・貴族、そして幕府の統制から脱して自立してゆく人々を幕府は悪党と呼んで怖れ、これを鎮圧しようとしていた。

③室町時代における商業発展の様

市の開催は月に六度となり六斎市と呼ばれ、どこの市でも町屋に常住して商いを営む商人や職人が現われ、政治的都市以外にも大きな寺社の門前や重要な港などに都市が形成された。これらの都市は、全国的な陸路・海路の輸送とも緊密に結びつき、朝鮮・中国・琉球・蝦夷が島などの外国との貿易を行った。

貨幣では明銭が流通するとともに、これでは不足したために各種の私鋳銭が作られ全国的に流通した。さらに商品取引の活発化を背景とした信用貨幣も登場し、割符や為替と呼ばれて、各地の問屋を経由して貨幣とも交換可能な紙幣も使用されていた。

商業・手工業の民は寺社や貴族から独立する傾向を強め、各地で「座」を形成して、それを保護する寺社・貴族に座銭を払う事で、諸税の免除や諸国往来の自由などの特権を得ようとした。また、守護などの武士の力を背景にして、寺社・貴族などの権威を背景とした座の特権に対抗するものも出てきた。大きな重要な門前町や港町ともなると、市それ自身の神聖さを背景として、寺社や貴族そして諸国守護などの武士の介入も排除た「自治都市」を形成し、「楽市」と称して、諸税の免除や市座の座銭免除などの特権を手工業者や商人に与える所まで出てきたのである。

※その後の織田信長がこれに倣って、新たに作られた城下町に多くの商工業者を集めるための「楽市」を作らせた。

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