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2017年08月24日

古代中世の市場・諜報ネットワークを支配した葛城氏→秦氏

非人(朝鮮半島からの流入民や国内の逃散農民)に対する社会政策を、加茂役君小角(役行者)を源流として西大寺が担っていた。彼ら非農業民(非人)の収入源は専ら市場(散所)活動であり、その上納金が西大寺に貢納され、西大寺基金となった。南朝の諜報組織の源流となっているのは、朝鮮からの流入民や国内の逃散農民の社会政策を担っていた役行者(役小角)である。役行者は修験道の開祖と云われるが、その正体は何か?あるいは修験道とは何だったのか?

『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「役小角(えんのおずぬ)」から引用する。
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小角の生まれた家の氏は「賀茂役君」と言い、後に京都で賀茂神社を奉る賀茂氏の流れである。この賀茂氏、元は天皇家に匹敵する臣王家葛城氏の子孫の事で、臣に下った後、「一部が賀茂氏を名乗った」と言われている。「役」は、特定の職掌をもって宗家・賀茂氏に使えた賀茂氏の分家の氏の名を意味する。従って、小角(おづぬ)は賀茂氏流れの血筋と言う事になる。
上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主(かもあがたぬし)の後裔である。修験道の開祖・役小角が活躍したのは大化の改新の後、天智大王(天皇)の御世から天武大王(天皇)の御世に代わる670年頃で、712年編纂の古事記や720年編纂の日本書紀よりも古い時代の事である。小角が、大海人皇子(天武天皇)が即位したと時を同じくして陰陽修験道を始め、その修験道を組織化して行く所から、この陰陽修験組織成立には天武天皇の意向が存在したのではないだろうか?
役行者とも称される葛城氏・賀茂小角は、朝廷の権威をあまねく列島の隅々まで知らしめる為の武装組織兼布教組織の長官ではないだろうか?
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『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「陰陽師=国家諜報機関説」
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修験道の祖「役小角(賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、賀茂・葛城家に伝わる「呪詛信仰(事代主神)」の呪術、占術、元々列島に存在した八百万の「原始自然信仰」と、渡来して来た中世の「妙見信仰・北辰信仰」や「道教」を習い合わせて誕生し、その後の仏教などの渡来宗教にも影響を受けて行くのだが、どう考えても自然発生的に陰陽修験が成立したとは思えないのである。疑うべき最大の疑問は資金と組織力で、表向きの個人的な宗教への情熱などが理由では、余りにも話が綺麗過ぎる。つまり、行動範囲と人数の規模が、不自然に大掛かりに過ぎるのだ。

そして、「役小角」の修験道師育成には影の目的が存在した。占領支配された先住民(蝦夷)も、征服者達に隷属・同化した者ばかりではない。大半は戦闘を繰り返しながら、東に、そして東北へと住居を移して生き残りを図ったが、中には取り残された者達も居る。当然見つかり難い処に身を隠し、ゲリラで長期に抗戦した集団も各地にいた。古事記、日本書紀、各地の風土記に登場した土蜘蛛族達は、こうした先住民(蝦夷)の抵抗の事で、支配者も枕を高くして眠れない。小規模の相手に対して、どんな対策がなされたのか?

山深く移動し、戦闘、説得帰順の為の宗教的知識まで持った古代のレンジャー部隊が山伏(修験道師)の影の役割で、つまり修験道師は帝の「工作機関・秘密警察」ではなかったのか?
地方により違うが代表的な所で、ゲリラ蝦夷の呼び名は鵺、土蜘蛛、鬼、・・・この本拠の一つはどうした訳か、大和の葛城山・大江山などの山々である。つまり、修験道の「行動守備範囲」と重なっているのである。

大和朝廷によって、日本列島の西日本統一が実現された時、征服(侵略)部族の王達が神格化された。
王達が神格化された事もあって、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」から、武力を統治の裏付けとする事は建前上矛盾する。矛盾を解消する為に、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用された。この建前の「特異な制度」、「神の威光で統治する」では、結果的に地方における警察力欠如の環境が成立してしまう。

しかし先住民の山岳ゲリラは続いていた。それに、征服部族同士の対立も散発的に起こっていた。
そこで中央では、最先端の科学力と信仰理論を修めた人材を結集して秘密警察の修験道師組織が内々(本音の部分)で編成される。列島に渡来した道教が、日本オリジナルの陰陽道に変形して行った背景には、事代主を祭る賀茂氏(葛城氏)の影響である。つまり「お上(氏神)には間違いが無い」と言う神話を作る為に、性善説に立った建前を民衆に植え付けたのだ。

そして、修験道の祖「役小角(賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、情報収集の為の「大規模ネットワークを持っていた」と言われて居る。陰陽修験組織は当時なりの、今で言う「メディア戦略と情報操作」の為の機関だった。
古事記・日本書紀の編纂開始時期と役小角の陰陽修験組織の成立時期が一致しているところから、修験組織は全国津々浦々の集落に出向き、政治的意図を含んだ古事記・日本書紀の内容を民話や伝説として語り広げる「政府の広報活動も担っていた」と考えられる。
山間僻地に到る民衆まで心服させる為には、役小角とその配下の神格化が必要だった。しかし、神になっては大王(天皇)の権威と同格になる。そこで考え出されたのが、「会得」と言う手段である。
難行苦行の末に超人的能力を会得した役行者が誕生する。
役小角やその配下の不思議な術は、当時渡来した仏教を通して中華文明の最先端技術を駆使した事である。
今で言う天文学、気象学、医学・薬学(治療術・治療薬から化学反応)、鉱物学(採掘から錬金術)、建築学、機械工学、など多岐にわたる最先端技術である。これが、民衆には人間業とは思えない奇跡に見え、陰陽修験は恐れられ尊敬される事になる。
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つまり、葛城氏(その源流は秦始皇帝を騙して日本に脱出した徐福の一派)の諜報組織があり、その統括者が修験道の開祖と云われる役行者であった。
元々は、土蜘蛛や蝦夷と呼ばれた先住民(縄文人)を諜報や調略の対象としてたが、その後、朝鮮半島からの流入民や国内の逃散民対策も担うことになり、彼らを諜報員に組み込むことによって、諜報組織を拡大していった。それが修験道や陰陽道である。
修験道も南朝も吉野や葛城を拠点としている(楠木正成も葛城近辺の勢力である)。
また、修験道の開祖役行者は葛城一族である。

『秦氏の研究』(大和書房刊 大和岩雄著)の次の記述によると、朝鮮からの流入民を受入れ、彼らの市場・芸能・諜報活動を統括していったのは秦氏だと考えられる。
「漂白芸能民や白比丘尼が秦河勝・秦道満を祖とすることからみて、古代の日本列島へ渡ってきた朝鮮半島の才人白丁は、秦氏の統制下に入るか、自ら秦氏に結びつこうとしたかの、どちらかであったと推測される。」
「散所は、中世前期まではそれほど差別的な意味はなかった。しかし、中世後期になると、散所という語は、非人・乞食など被差別民を指す言葉となる。」
「秦氏は、平安京造営のスポンサーになり、藤原氏とも血縁をもち、彼らが祀る松尾大社は上賀茂・下賀茂神社と共に平安京の守護神となっているが、一方では、被差別の対象にもなっている」

元々、市場や諜報のネットワーク、神社ネットワークを作り上げたのは葛城氏(賀茂氏)だが、その後、賀茂神社の実権を秦氏が握ったように、ネットワークは秦氏に移行したと考えられる。

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