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2017年08月17日

輝きを失った近代からの決別~「与えられるもの」からの脱却

>近代化の中でつくり上げてきた社会が明らかに輝きを失う中、私たちは新しい社会を構想、創造できずにいます。
戦後のように近代化、経済発展はもはや希望にはなりえません。
近代化とは、様々な関係性を断ち切り、人間ひとりでも生きれる快適で便利な社会をつくることでした。

自然と人間の矛盾に向き合い、折り合いをつけながら共存するとき、人間は自然との関係性、他の人間との関係性、そして古の魂との関係性を紡ぎます。人間の知恵が磨かれ、地域の相互扶助が強化され、文化が豊かに育つ。このことを日本の民衆の伝統的生き方や精神は教えています。これを今こそ、学び直し、現代に合わせた形で紡ぎ直し、新しい社会を創造していくときです。(リンク

 

明治維新から150年、終戦から70年、そろそろ近代の総括が必要になったのだろうか。
新しい社会を作っていくには、社会を全面的に閉塞させた近代から明確に訣別する必要がある。

江戸時代の農業生産が主の地域共同体社会から、工業生産による個人が主役の市場社会への転換。
自給率の高い共同体では市場化は進まない、だから共同体の解体が必要だった。
地域共同体から切り離し、個々人を市場の住人とし、消費者を作りだす必要があった。
そのために、身分制否定、民主平等社会、人権尊重、個人の自由、自由な恋愛、、、と、まるでそれまでの社会が不自由極まりない抑圧された社会であったかのように、抑圧からの解放を煽った。中心的役割を担ったのはマスコミ、学校教育であるのは言うまでもなく、学者、文化人、知識人が言葉を与えた。
江戸時代の身分制は確かに無くなったが、国家権力、資本権力を握る私権序列制にとって代わられたのも言うまでもない。

共同体が解体され、都市における根無し草の個々人が大量に生産される。
地域課題もなく、生産課題もない核家族には、単なる消費課題しかない。
お上の望みどおりの市場社会、消費主体が誕生した。
しかし、生産課題のない集団、これは人類史上、例のないカタワの集団の誕生であった。
根無し草である以上、当然のように「社会をどうする?」など考えるわけもなく、
興味関心は己の生活のちっぽけな幸せ?と、子育て課題のみ。
「社会をどうする?」どころか、「国はどうしてくれる?」と要求主体となるのは必然。
かくして、要求ばかりの「与えられる」ままの思考停止社会となった。
これも、お上の望んだ社会なんだろう。統合者にとっては実に都合がよい。

しかし、豊かさ実現から45年、ようやく動き出した。
国家の暴走、己の非充足に黙ったまま仕方なく生きることに、本能次元から危機感が生起し始めた。
このままではヤバイと、ようやく皆が考え、行動するようになった。
何千年と受け継いできた日本人の集団性が、再生し始めた。
この流れはもはや止まらない。
足りないのは、近代に代わり誰もが共有できる未来像であり、言葉だ。
それは、近代思想を飯の種にしてきた学者や教育界からは決して生まれようがない。
現実の生産課題や地域課題にひたすらに取り組み追求する人々の実現態からしか生まれない。

 

>21世紀の公共性をつくろう(リンク

高度経済成長を経て、長期低迷に苦しんだ日本経済。人口の東京一極集中がもたらした地域産業の衰退と過疎化。世界一のスピードで少子高齢化が進展していく中で、「国や政治家はダメだ…」「どうせ田舎には何もない…」「役所はどんな補助をしてくれるのか…」。私たちは、どこかでそんな思考回路をしてきたのかもしれない。20世紀の公共性とは「与えられるもの」であったようにも思う。

僕が東北で学んだ最も重要なことは、目の前の「現実」は変えられるということだ。
直面する様々な困難を、自分たちの力では到底変えられないものと考えるのか。それとも、あらゆる社会の制度や課題は結局のところ人がつくり出してきたものだから、それらは人の力で変えることができると考えるのとでは、一人の人間としてのあり様がまったく異なる。

社会の中で、自分の責任と役割を全うする。そんな実感を持てることは幸せで、仕事を通じて大切にしたい価値観を、自らの意思によって形にする。本当に自由な働き方とは、単に「お金がある」「休みが多い」ということではない。21世紀の公共性は、多様な個人の生き様から生まれる。

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