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2017年09月07日

日本列島で稲作はどのように伝播したか?

『民族学伝承ひろいあげ辞典』「遠賀川式土器の移動と早期水田伝播から見えるもの」から転載します。

「(北九州の)遠賀川式土器(おんががわしきどき)は、西日本に分布する弥生時代前期の土器の総称。九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播の指標とされ、西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。」
「分布は太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域におよぶ。その後南西諸島や本州北端の青森県までおよんでいることが分かった。 伊藤信雄は、1970年代に炭化米・籾痕土器関連の遺跡を東北地方で23カ所掲げて、日本海沿いの稲作伝播の可能性を指摘している。1980年代に入って青森県三戸群南郷村の松石橋遺跡で完形壺がみつかり、遠賀川式土器であることが分かり、是川遺跡から出土した土器片が遠賀川式であることが確認された。それ以来東北地方各地で遠賀川式土器的などが見つかっている。これらは遠賀川系土器と呼ばれ、東北地方各地の遠賀川系土器の詳しい観察結果や図・写真が公開されている。」

列島の稲作は土器の出土編年から、まず日本海ルートで出雲・越(新潟)へと早期に動く。この流れが青森砂沢へと向かったようである。日本海側が早い理由として学者は対馬暖流の流れと温暖さ、さらに夏季の雨量の多さをあげている。疑問点もあるが記紀などの史書が出雲に早期のクニがあったと言うこととは合致することになる。太平洋ルートでは遠賀川から瀬戸内に入り吉備~近畿へと向かうルートと、豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向かうコースがある。

東北の三陸側へは太平洋ルートではなく、もしや日本海で青森周りで南下して到着した可能性がある。関東地方の水田が最も遅くなっているからである。

いずれにせよこれらすべてのコースは安曇族や久米族の海上交流コースの早期存在を示唆することになるだろう。

●遠賀川式土器の移動と水田の広がり
史学界では遠賀川式土器を作る人々が水田稲作を東北にまで広めたことはすでに定説化している。しかし、最初、菜畑のような北部九州の西側で始まった水耕稲作が、なにゆえに北東部の遠賀川流域の人々によって広められたについては、いまだ納得できるアイデアにお目にかかっていない。そもそも九州北西部には長江中流域に多い甕棺墓が広まったが、博多の北東部から豊前には例えば板付遺跡でさえも菜畑から500年も遅れてしまうのである。

しかしほかによい付随遺物がないので、ここでは学界の説に準じて話を進めておく。
東北で遠賀川式を模倣して作られた類似土器が多数出る。後進地帯と言われてきた東北だがこれによってすでに地域によっては九州と交流していた先進地帯があったことがわかった。稲作ばかりではなく、農具つまり実用鉄器の移動、あるいは九州的な装飾品も同時に届いており、あるいは琉球の南海にしかいなはずの貝の模倣品土器すら縄文後期・晩期に出ている。
つまり九州~日本海~東北(南北海道までも)のコースは稲作以前からすでにあったということになる。さらに付け加えるならば、世界の交易は遠隔地から始まるという世界史の定説もあり、このような長旅を小舟でやれた人々ならば、当然東シナ海すらも渡って長江河口部や山東半島にまで往復できたと考えてもおかしくないだろう。

さて、この遠賀川式土器の日本で最も早い移動の痕跡は、つまり倭人の船旅の列島内で最古のものであり、それが「おがのみなと」のちの「岡の港」(おがとは遠賀の古い発音)からはじまったことに日本古代史最大の謎を解く大きなヒントがあるわけである。

img_1

http://www.ranhaku.com/web04/c3/2_01map.html

●遠賀川式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図をもう一度じっくりと眺めていただきたい。

瀬戸内海で近畿へ向かう航路では岡山に土器が集中している。そして播磨から淀川流域(摂津)である。南下して河内方面へも広がる。しかしこの瀬戸内ルートはここで一旦伝播の波がやみ、淀川を北上した波も琵琶湖南部で止まっている。

紀伊半島・三重県から尾張へは太平洋ルートで伝播したのである。そしてこの流れはここで一応終結したと思われるのは、濃尾平野から北へは伝播時期が非常にはなれてしまい、最後になったのである。

ちなみに、不思議なのは吉備と出雲の間と、播磨と出石の間に横たわっている中国山地である。吉備と出雲は古墳文化が大きく異なるが、考古学的には出雲の西谷古墳(四隅突出型)からは吉備系の円筒埴輪などが出てきており、双方に交流があったことは明白なのだが、播磨と出石には水田・鉄器・土器の交流がないのである。なぜおかしいかというと、実はここの間の山地は、日本で最も低くなだらかな丘陵だからである。分水嶺が日本最低の海抜10メートルというからこれは山地とは言えず、ひょいっと越えられる丘なのだ。なのに交流が少ない?尾張から福井若狭へ抜ける部分が日本でも最長最高の日本アルプスでさえぎられていたにも関わらず文化交流や人の流れがあったにも関わらず、なぜ兵庫県の日本海側と瀬と内側には古くからの交流がなかったか?筆者には疑問である。

参考文献 木下正史 『よくわかる古代日本の全体像 知識ゼロから学ぶ日本史の原点』新人物往来社2011

※遠賀川式土器が水田と鉄器その他の装飾品などと移動していった道こそは、実はツヌガアラシトやアメノヒボコらの通り抜けていった道、神武天皇東征ルート、そして海人族と隼人たちの海の道なのである。

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日本列島における稲作の伝播ルートの指標として、遠賀川式土器が使われている。これが正しいと言えるかどうか疑問はあるが、定説では、稲作の伝播ルートは、北九州東部の遠賀川を基点として次のようになっているようだ。

【1】日本海ルートで出雲・越(新潟)から青森砂沢へ伝播したルート。

【2】瀬戸内に入り吉備~近畿へと向かったルート(岡山に集中。淀川~河内・琵琶湖南部で止まる?)。

【3】豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向ったルート。

【4】関東地方の水田が最も遅くなっている。日本海で青森周りで南下して東北の三陸側へ→関東地方という可能性も。

【5】北部九州の西側で始まった水耕稲作が、なぜ、北東部の遠賀川流域の人々によって広められたかは不明。

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