2018年08月05日
『宮下文書』による徐福の出自と来歴
徐福とその子孫たちが書き残したとされる『宮下文書』には、徐福自身の伝記が記されているらしい。
ウィキペディア「宮下文書」によると、宮下文書とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の旧家、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。神武天皇が現れるはるか以前
の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。
以下、『ウエツフミとウガヤフキアエズ王朝の研究』「『宮下文書』による徐福の実像」を要約したもの。
●徐福の出自
出自は、韓轅氏。韓轅氏の第4子を忠顕氏といい、その6世の孫を萬正氏という。萬正氏は夏の兎王に仕え、農業を担当した。その子孫は代々夏王朝に仕えたが、滅んだあとは民間人にもどった。その48代の末裔である正勝は、周の武王に仕えて功を立てたので、「徐」という姓を賜り、楚国の首長となった。その子孫が、孔子の弟子の「子路」である。子路の子孫たちが、秦の始皇帝に仕えて重臣となった。その重臣のひとりが、徐福を生んだ。
●宮下文書の徐福に関する記述(概略)
・紀元前3世紀、秦の始皇帝の3年、大陸の東海岸を視察している際中に、徐福は始皇帝に提案し、船85隻に人や食料や資源を満載して出発した。
・第7代・孝霊天皇の時代に、富士山に渡来。
・蓬莱とは富士山のことであり、日本国内にはこれ以外にも神仙(神の山)があと2つあったことが分かる。ひとつは阿蘇山ということでほぼ一致しているが、残るひとつは議論が分かれている。これを「神仙思想」という。
・最初に上陸した島(九州と思われる)には、蓬莱山が無かったので、再び船に乗り南東を目指した。
・次に上陸した土地で3年かけて蓬莱山を探したが、これはのちに紀伊国の木立野の大山であったと判明。
・孝霊天皇74年、みたび一行は船に乗り東を目指し、10日あまりで駿河のウキ島原に上陸。富士蓬莱山の中央高天原に登り、焼津?に到着した。一行は、三か所に分かれて定住した。
・一行のなかには、農夫、大工、職人、医師などが居たので、まず桑を植えて機織りを行わせた。
・武内宿禰が、徐福の来朝を聞いて喜び、富士山本宮七廟惣名・阿祖山大神宮に挨拶にやってきて、のちに熱心な「徐福学」の信奉者となった。(この記述から徐福と武内宿禰はおそらく同時代人、かつ同国人であったことが分かる)
・徐福は神国日本の太古の歴史を書き残す事業に着手して、神々の子孫たちに師事し、その口碑、口談、伝言、および各家に伝わる実記録や系図を集大成して『十二史談』を作った。
・徐福は小室の高座山に、これらの書物や持参した薬師如来を安置して、これを阿祖山大神宮の宝物とした。
・第8代・孝元天皇の御代に亡くなる。
●管理者によるコメント
・徐福一行は何年もかけて日本各地を転々と移住して行った。佐賀に漂着し、熊野に三年間滞在し、そこから駿河の焼津に定住した。
・紀元前3世紀に漂着した徐福の一行は、駿河の国で「富士王朝」と呼ばれた小国を建国するが、その痕跡は富士山の噴火によりすべて失われた。(同じ頃、関西には東北人による大和王朝、九州には日向族によるウガヤフキアエズ王朝があった)
・その後、「富士王朝」は500年近く繁栄して、「大和王朝」や「九州王朝」と激しい対立を繰り返し、ついに紀元後2世紀頃には政権を奪うことに成功した。これがのちに『倭国大乱』と呼ばれる。その結果、即位したのが第10代・崇神天皇である。
なお、崇神天皇は徐福一族が呼び寄せた政治家であり、第12代・景行天皇は職業軍人である。
(神武~綏靖までは九州王朝、欠史八代とは東北人=ナガスネヒコ政権、または徐福の子孫を指す)
・「富士王朝」側に属した人物として、
騎馬民族では、崇神天皇・(垂仁天皇?)・景行天皇・ヤマトタケル
海部族では、武内宿禰・神功皇后・応神天皇
これらの人物こそ、渡来人=秦氏=失われたユダヤの10支族であり、騎馬民族と海人族による連立政権が誕生して、日本の歴史に深く関与してき
た。
- posted by KIDA-G at : 2018年08月05日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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