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2013年11月28日

家族って何? シリーズ3.江戸時代 ~武家だけが血縁父子相続であった~

何かあった時に、最後に信頼できるのは家族の絆、と思いつつ、実態は、子育てサービスや高齢者福祉サービス、外食サービスに依存し 何かあった時でも助け合える環境にない。
同じ家屋に居住していても顔を合わせる事が少なくなり、同じ部屋にいてもそれぞれパソコンやメールを見ている事が多い。近年、世代を追うにつれて家族の絆は細くなっていくばかりで、家族を持たない非婚派は多数になり、家族内の紛争事件は増加しています。
この流れは、家族という最小の集団形態が年々崩壊に向かっている状態である事を示しています。
一方で、デフレ・不況の中でも、「家族的経営の企業は元気がいい」とか、「仲間意識を元に新しく農業にチャレンジ!」という新しい家族的な繋がりに注目が集まって来ています。
わたしたちはどうして行けばいいのでしょうか?
大きな方向性を見極めるために、現在の家族がどのように成立してきたのか?を調べる事にしました。
家族って何?シリーズ3では、Familyの訳語として日本に「家族」という言葉が登場する以前の、江戸時代の家族(?)を分析しています。ポイントは「血縁の父子関係」です。

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●日本には元々、血縁の父子関係がない。
一つの集団が数件~20軒程度の家屋に分かれて暮らすスタイルは、遥か縄文時代の遺跡~江戸時代の村落(集落)に見られる普遍的なスタイルです。前回の記事(リンク)でも書かれているように、村は自治的で生産だけでなく子育ても教育も村を基本単位としており、性関係・婚姻関係は極めて開放的で、父子の血縁関係を特定する必要はありませんでした。これは、現在の血族の親子を核とする「家族」とは様相がまったく異なります。
●江戸時代の家族って?
江戸時代は百姓も商人も、庄屋や寺が管理する「人別帳」に代々の記録が残っています。
人別帳とは、徳川幕府が始めた制度で、キリスト教でない事を寺が証明すると共に、年貢を納める男子の責任者を世代を超えて特定し続けるもので、毎年更新して管理する事によって何代にもわたる人心の管理と安定した年貢の徴収が可能になっています。
この「人別帳」よれば、戸主は男であり、その倅(せがれ)が農地や財産を引き継いだ事が示されています。
こう見ると、江戸時代は現在と同様に血縁の父系相続の家族であったと見えるのですが、実際は違います。
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↑これが人別帳です。左右それぞれのページに、冒頭に石高が、下段に主人と主人の妻、
主人の父、主人の倅、etcが記載されていくスタイルです。
●農村は村が基本単位
人別帳では、倅の名前が年々変わっていたり、養子が出入りする事が茶飯事であった事がわかります。
また、人別帳の記載自体にも、怪しいところがあり、他の村や都市に出稼ぎに行っても報告せず、村の人数が2倍になっていたりして、実際の居住状況とは異なる部分がかなりあります。
実際は、前回の記事(リンク)にあるように、農村では、祭りや夜這いに見られるように性関係は極めて開放的で、人別帳に「倅」と書いてあっても父子の血縁関係を示すものは存在せず、現在のような「苗字」もありません。
田畑の主要な仕事は村単位で行われ、家屋の建設や修繕も村単位です。また、子育ても教育も村が基本単位で行われていますので、「村」としての一体感や帰属意識が高く、2~3世代の数人が各家屋に分かれて暮らしていても、現在の「家族」に対するような一体感や帰属意識は極めて希薄であったと考えられます。
●商家は婿取りで母系を存続した。
商人は、主人も奉公人も含めて商家(「○○屋」などの屋号、のれん)に帰属し、大家族のような基本単位になっているのですが、この商家の相続は、基本的に「婿取り」でした。商家の奉公人の中から頭角を現した者や、他の商家の優れた倅を婿に取り跡を継がせるというもので、これは日本特有の珍しいものです。
大阪の「いとはん」(後継娘)が有名ですが、江戸商家でもその大半が婿取り相続を家訓として定め、倅(血縁男子)への相続を避けていたという記録が残っています。
娘(血縁女子)は商家に残って女将さんになる他は、他の商家や武家に奉公したり嫁入したりします。性関係は、女将さんが奉公人の面倒を見たり、娘が奉公に行った先の武家で子ができたりして、現在の見方からすれば非常にオープンで、血縁の父子関係への執着があまりまかった事を示しています。性関係は、何より商家が繁盛し上手く行くように運営されていたものと考えられます。
この商家の「婿取り」は形の上では父子相続という事になりますが、この父子関係は商売(仕事)の後継関係であって血縁ではありません。見掛けは父子相続の形をしていても、実際は商家の存続を優先され、母系の存続の方が重視されていた事がわかります。
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↑江戸時代の商家の写真。旦那と番頭、奉公人が商売の話をしているのでしょうか?
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↑商家をテーマにした喜劇です。いとはんが一番手の番頭と何やら相談しているようです。
●武家だけが父子相続
これまで見たように、日本の江戸時代の家族?は、農村は村単位、商家は母系単位、その中で性はオープンで血縁の父子関係にこだわらないという共通の特徴があります。
一方、武家は、これらとは異なり、血縁の父子相続を基本とする「家」を重視してこれに帰属し、嫁取りによってこれを存続させています。これは、中国や朝鮮の氏族の姿に近く、西洋のファミリー、そして明治時代の「家」制度もこれに近似しているので現代人から見て違和感が少ないのですが、これは過去の日本では珍しいスタイルです。
武家が父子相続としたのは、(チンパンジーがそうであるように)息子達を強く育て、徒党を組んで戦うのに有利なためであるという見方ができますが、実際は血縁の男子が勇猛であるとは限らず、むしろ上位の武家ほど血縁の男子がひ弱になってしまう傾向があります。
そうであるにもかかわらず武家が例外なく血族の父子相続としているのはなぜでしょうか?
●統合者としての正統性
これは仮説ですが、武家が血縁父子相続としたのは、統合者としての正統性や権威付けのためであったと推測します。これは日本に限らず、戦乱の後には、社会秩序は世襲の身分に収束していきます。武力による勝者が統合者として認められるためには、単に武功を上げたというだけでなく「○○の子孫」「源氏の流れを汲む○○氏」といった血統の正統性による権威付けが重要になるとともに、その権威を世襲していく必要から血族の父子相続が当然の姿になったものと思われます。
これは余談ですが、日本における天皇家は基本的に血縁父子相続として記録されていますが、これは権威付けのための偽装であって、古代の状況を見る限り、実態は母子相続(母系)であったと見直されてきています。
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↑武家の家系図です。血縁父子繋がりで清和源氏に繋がっています。
●後に、明治政府は、日本中を「家」単位にして国家を形成した。
明治維新を起こした下層武士たちは政府の高官になり、百姓には父系の苗字をつけて登録しなおし、日本中を自分たち武家と同じ父子相続の「家」単位としてその家長から(米でなく)税金を徴収、家を単位とする工業や商業を興隆させて国を富ませ、国際的な競争圧力下で生き残っていく戦略を取りました。
この明治時代の「家」の頂点に「天皇家」を据えたのは、天皇家が武家を超えて日本を統合するための正統性(日本書紀などの父系血族の記録)があったからだと思われます。日本は、海外列強に対抗する国家が形成するために、天皇家を帝国憲法で「万世一系」と定め、日本国民はこれと一体になって其々の「家」を営んでいく道へと進んでいきました。
●まとめ
江戸時代、農村では家屋ごとに分かれて暮らしているものの、人々が帰属しているのはムラでした。現代的に言うなら「ムラが家族(かつ職場)」であるという事です。
商家は、現代的に言うなら「商家が家族(かつ職場)」になりますが、この商家は血縁である母系を中心に、婿養子と多数の奉公人が組み込まれているのが特徴です。
これらに対し、武家は「血縁の父子関係」を基本とした家族という事になります。
これは、現代から見るとあたりまえのように見えますが、実は、これは日本の歴史に中では特異なもので、武力による統合のために導入されたものと考えられます。
戦争圧力が高まった明治・大正・昭和にこの家族のスタイルが日本中に浸透していくわけですが、逆に言えば、武力による統合の必要がなくなった時点で、この家族スタイルである必然性が無くなったという事になります。
これが、現代、家族が崩壊しつつある原因であるという事、そして、江戸時代にはこれ以外の家族スタイルが主流であったという事は、これからの家族を考える上で大いに参考になると思います。

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