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2021年08月05日

先祖への感謝、子孫への期待

今年もお盆の時期が来た。長らく日本の風習であり、全国いたるところで、ごく普通の家庭で当たり前のように行われてきた。こういう行事は宗教以前の深い意識に刻まれたものであろうと思われる。

その中身としては、先祖に対する感謝の意識が中心であるが、精霊という存在を措定して身近な生物に乗り移っていらっしゃるという意識など、自然の中で生かされているという森羅万象に対する感謝、畏敬の念も生起させるものでもある。あらゆる制約を超越して夏祭りが連綿と繰り広げられるのもこういう意識を共有しているからこそであろう。

このような感覚、意識はすでに失われつつある共同体意識が本来の人類の在り様である証左なのかもしれない。普段の生活では意識できないこのような意識、感覚こそ、次代の共同体社会にとって根源的な心の在り様となる。ある意味、日本人にとっては、このお盆の時期に心のリセットを行っているのかもしれない。

そのような一例を紹介したい。

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先祖に感謝し、まだ見ぬ子孫への期待を込めて山桜を植える人々

山桜を植える人
(『いのちの文化人類学』(波平恵美子:著)から要約・抜粋)

昭和40年代の初めのころの大分県東部の農山村では、今後生まれてくる孫や曾孫の代の人々が自分の植えた満開の山桜を楽しめるように、今のうちに桜の苗木を自分の家の前の「マエヤマ」(家の正面に立った時に見える山の風景あるいは山そのもの)に植える、という習慣があった。
桜の寿命は50年から70年であり、まれには100年、200年という老木になるものあるが、多くは100もたたずに枯れてしまう。だから、時期を見て苗木を植えておかないと、数十年後にはマエヤマに山桜を見ることができなくなってしまう。

「伝統的社会」と呼ばれるような社会に生きている人々は、自分の存在を独立した個別のものと考えず、むしろ、多くのものからいのちを受け継ぎ、そして別のものにそれを渡してゆく媒介的なものと考えてた。
自分が現在生きているのは、直接自分を産み育ててくれた父や母の存在があったからだけではなく、さらにその父母を産み育てたそれぞれの父や母がいたからだと考えて、自己の存在を幾世代にさかのぼった遠い先祖と結びつけて認識しいる。
それは、一般的には「祖先崇拝」と呼ばれるが、単に信仰や宗教活動としてだけではなく、人間が生きてゆくうえで依存している環境の関心やその保護という行為と直結している。

さらに、自分が生きていることの意味を考える手掛かりを、日常の生活の中の具体的な物や行為において求める。そのことが、同じ社会に生きて同様な生活体験を持つ人々は、自己の存在についてあるいはいのちについて同様の認識を持つという結果を生む。
この村の人々は、今咲いている桜を見て、それを植えてくれた亡き祖父を思うことができるし、自分が植えた桜の苗木が数十年後に枝を広げ沢山の花を付けている様子を思い描くことによって、未だ見ることのない子孫の存在を確かなものとして感じる事も出来きる。そこにあるのは、次々と引き継がれてゆくいのちへの畏敬の念であり、それを表現しようとする意志である。

 

この村の人びとの『山桜を植える』という行為には、大らかさや素朴さを感じますが、それだけではないようです。日々の生産活動・生活や周りの環境への配慮にも密接に繋がっているし、自らが見ることもない遠い将来をもしっかり見据えています。その奥には仲間や祖先への感謝や次の世代への期待、自然に対する畏敬の念がしっかりと根付いているのを感じます。
一方、現代の私たちは、自分の存在が限りなくさかのぼることのできる数多くの先祖の存在によってもたらされたものであることを、理屈のうえでわかってはいても、実感することはできなくなっています。自分たちが今行っていることの結果が、自分の「いのち」を引き継いでゆく子や孫や曾孫たちの生活にどのような影響を与えるのかを、生き生きと想像することができなくなっているのではないでしょうか。
科学的であり合理的な判断をしていると思っている現代人のほうが、実は現実が見えていないのかも知れません。共同体社会の現実直視の姿勢、自然の摂理に即した認識・生活に学ばなければならないことが沢山あるのだと感じています。

 

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