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2021年07月29日

共同体社会の仕組みはどうなる? -8

これまで述べてきた各テーマのまとめとして、人はどのように活動していくのか、何を活力としていくのだろうかということを扱って締めくくりたい。

シリーズのはじめに縄文時代のイメージを展開したように、現代の閉塞した状況とは真逆の開放的でおおらかな社会であったようだ。その後ユーラシア大陸においては気候変動に端を発する全面的な略奪闘争によって、国家が成立して支配-被支配で人々が縛られてきた。これは物的な事柄のみならず、思考方法に至るまで変えてしまった。その結果、それまでは共同体ネットワークが期待する様々な創造(追求)行為が、国家による強制労働、義務という名の都合のいい洗脳教育 、市場原理による生産と消費の分断などにより自己と集団(共同体意識)が分断してしまったのである。これこそ私権にしか収束できない暗黒時代と称すべき不幸な時代といえる。

であれば次代は、そこから脱していくだけで元来の創造(追求)活動に戻ればよいだけであり、その可能性基盤は深く潜在意識にも、現実の圧力としても醸成されつつある。本来の意味でのしがらみを脱すること。活力源としては、自分に都合のいい行動からみんなの期待に応えるベクトルに転換して行動することであり、その実現の為に枠を外すこととなる。すでに転換した人々の活力や成果が顕在化していることも見逃せない。

その実現の為に参照して頂きたい記事の紹介をもって結びとしたい。

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新しい活力源と生きる目標2.思考のベクトルが逆転した架空観念

このように、本源可能性の実現に向かう潮流は間違いなく上昇し続けています。ところが、活力源は仲間なのに現実にはいじめがあったり、もっとやりたいことがあるのに勉強を強制されたりして、現状は本源充足を実現することが出来ずに立ち往生しています。その実現を阻んでいるのは、学校制度を初めとする様々な社会制度ですが、それらの制度を作り出したのは、観念(言葉や思想)です。そして、現代の制度を生み出したのは、近代観念、つまり自由・平等・博愛や個人主義や民主主義や権利主義という観念群です。学校の教科書も、全てこの近代観念によって記述されています。また、親の「いい生活⇒いい大学⇒勉強しなさい」は何十年も前の古い常識ですが、そもそも大学も学校も全ては近代観念が生み出したものです。 この近代観念は、全て「あるべき姿」を表した言葉、つまり綺麗事に過ぎません。例えば、「みんな仲良く」という言葉は、いかにももっともらしい言葉で、誰も反論できませんが、現実にはいじめやスクールカーストが蔓延っており、「みんな仲良く」という言葉は、そのような仲間世界の現実とは間逆の逆転観念です。むしろ、現実が苦しいものであるがゆえに現実から反転して作られた願望に過ぎません。自由や平等や民主や権利という言葉も同様で、現実が苦しみに満ちているがゆえに現実から反転して作られた架空観念に過ぎません。この架空観念は、人類本来の思考が生み出す事実の認識とは異なっています。 現実に生きる人々は、みな行動しながら追求しています。発明家や起業家はもちろん、経営者や会社員も、みんな行動する中で現実を直視し、事実を追求し、それなりに答えを出して生きています。それが、人類本来の当たり前の思考のベクトルです。 ところが、架空観念の思考のベクトルは、現実ではなく現実から反転した非現実の世界に向かっています。つまり、人類本来の思考ベクトルとは逆転しています。 それでは人類は、いつ、なぜ、思考ベクトルを逆転させてしまったのでしょうか?それは、古代宗教の登場とともに始まっています。私権の強制圧力は、戦争や支配や貧困など、様々な苦しみを作り出しましたが、その苦しみがどれだけ大きくとも、万人が私権の獲得に収束してその苦しみに満ちた現実世界を作り出している以上、現実世界を変革することは不可能です。この変革不可能な現実の壁に跳ね返されて、思考ベクトルを反転させるしかありませんでした。つまり、現実に対する不可能視こそ、人類が思考ベクトルを反転させた真の原因です。 (略) 問題の近代観念は、180度逆転したユダヤ教の思考ベクトルをそのまま踏襲しています。近代観念の全てが架空観念となった理由はそこにあります。従って、自由や民主や権利等の近代観念は、唯一絶対神を小分けにしたものだとも言えます。全ての観念が唯一絶対で、極めて排他的であり、また、そこでは信じるか信じないかだけが問題で、いったん信じた後は、人々を思考停止させてゆきます。 もちろん、非現実の世界に構築された架空観念は、初めから決して実現されることはありません。また、現実の問題に答えを出せるわけもありません。にも拘らず、いかにももっともらしく頭上に掲げられた観念が架空観念であり、その意味では、架空観念は人々を欺く欺瞞観念だとも言えます。

 

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