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2011年2月11日

2011年02月11日

原始時代の社会期待(12)~同類圧力の上昇が生産様式の転換をもたらした~

前回【縄文人は、農耕生産よる集団構造の変質を恐れた。】 では、縄文人が、共同体社会を守るために稲作を部分的にしか、取り入れなかった状況を見てきました。

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縄文後期、畑稲作が始まった後も並行して網羅的食料体系は残っており、稲作が始まった後、他文明で見られる、階層社会の成立や戦争の開始といった社会のシステムや枠組みを大幅に変換させるような形跡は見られなかった。それは、畑稲作は既存の共同体組織で充分に対応できたと思われるし、余剰を生み出さないイデオロギーが残存し、自然を大きく破壊しない、サイクルを変動させないタブーが存在したとさえ想定できる。
後期に登場した呪術の技術はそれ(自然との関係の破壊)を戒めるために使われたとも考えられ、そのことにより、縄文時代の農耕は伝統的な獲得経済の一部を構成したにとどまり、けっして支配的な食料獲得様式にはならなかった。 稲作を拒否したのではなく、社会の変質を拒否したのである。
(画像は三内丸山こちらからお借りしました。)
縄文時代の後期の最後頃(2800年前)に、再び寒冷期が訪れ食料不足が発生し食糧危機に直面しました。それでも縄文人は、直ちに「農耕生産」に向かわずに、精霊の応合期待と共同体組織のみんな期待の中で、自然との共存の術と知恵で難局を突破したのです。これが、縄文時代の社会期待と考えられます。
一方で縄文人は、農耕生産により本源的共同体社会が破壊されていく危惧を感じ取っていたのです。

 今回は、その後、なぜ、弥生時代に稲作を全面的に採用するようになったのか、を探ってみたいと思います。
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