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2016年3月3日

2016年03月03日

日本語の起源カタカムナ~カタカナの起源は基底思念を表す四十八の声音符

日本語の起源は、カタカムナの上古代に、カタカムナ人の鋭い直観によって、天地宇宙の万象の発するヒビキを感受し、それを、人間の発音しうる、ほぼあらゆる声音(四十八個)にうつしたところにあった。そこに、古代にシナ語が入ってきた。
以下、相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月)より引用・要約したものです。
カタカムナ4107

●オンとクン

このような日本人の音感からすれば、同じ文字のオンとクンであっても、ココロと心(シン)は同じではないし、イノチと生命(セイメイ)、カミと神(シン)は違ふはずである。もし全く同じで、日本人の感覚が、心(シン)だけで充分なら、「ココロ」の方は消えて居たであらうし、あるひは「カミ」も消えて、「神」だけが残り、又、「生命」が残って「イノチ」の方は失せて居たかも知れない。心や神や生命のほかに、ココロやカミやイノチといふ言ひ方が、今日まで使ひつづけられて、伝へられたのは、日本人はどうしても、これらの古い和語のヒビキを、捨て去るわけにゆかなかったからである。

そもそも同じ漢字に、オンとクンがあるという事は、どういふ訳であろうか?オンとは、当時のシナの発音であり、クンとはそれに該当する、日本語の「翻訳」という事であろう。つまり「心」のシナ語の発音がシンであり、和語のココロが、それに当ると、当時の日本の智識人が、解釈したのであらう。同様にして神をカミに、生命をイノチに当てた。しかし、この翻訳は必ずしもピタリではなかった。

日本語の中に移植された以上、日本民族のココロに共振して日本語の「オン」となったが、しかし、どうしても共振しきれないものがあって「クン」として残って、もとのままのカミと発音され、やはり日本語の中に生き続けたのであらう。

では「神」の「シン」といふ「オン」と「カミ」という「クン」はどう違うのか?

その違ひが、形や数量などで表せるものならことは簡単に片付くが、「ココロ」や「カミ」のような目に見えぬ潜象の存在についての直感を表明したこれらの言葉は、我々もまた直感を以って迫るしかない。その場合ヒントになるのは、彼らが用い、そして今もなほ我々も使っている、この日本語の、一音一音のヒビキのもつ「基底思念」である。

言葉はたしかに、日常的なコミュニケーションの道具であり、人間の作り出したものに違ひない。しかし、使ふ人のココロに応じた表現性をもつのは、言葉の発生の根源に、天然理に通じるものがあったからである。少なくとも日本語の発生は、天然宇宙の「ヒビキ」を感受したところにある。それが現代の日本語にもかすかに伝はるのである。

●日本の文字の特殊性(カタカナの起源)
以上のように、カタカムナ文献の解説により、「カタカナ」という名称のおこりは、「カタカムナ」という言葉からでたものであるということ、カタカムナの四十八の声音符が、今日の我々の使っているカタカナ文字の原型であることを直観した。そして、この図象文字を創作した部族集団を、カタカムナ人と呼ぶことにしたのであるが、それは、彼ら自身が、自分たちのサトリを表はす為につくった表象物を、ヤタノカガミと言ひ、その意味を述べた、
ヒフミヨイ
マワリテメクル ムナヤコト
アウノスヘシレ カタチサキ
ソラニモロケセ ユヱヌオヲ
ハエツヰネホン(カタカムナ)
の四十八のウタを、「カタカムナのウタヒ」と称しているからである。

この四十八文字のウタこそ、我々の日本民族のもつ、最古のウタの記録であり、その内容は、それ以後の、日本人の心情や、精神構造を解明する上に、最も根本的な、日本民族の独自の哲学の、原型を示すといへるものである。
民族の発展の原初の時期に、このような強い基礎が置かれていたからこそ、そして、それが、後代の人々にとっても、マットウな、スジの通ったものであったればこそ、その後、いかに漢字の採用や、外来語の流入による混乱があっても、やがて整序されて、日本語は、発祥以来の原型を数万年後の今日まで、もちつづけるといふ、非常に稀有なケースとして、人類の文化の中に、独特の存在を示すことになったのであらう。

人知が、「神」や「心」「霊」「私」「愛」「孝」等々の文字を、必要とするような、欲求を持つよりも以前に、カタカムナの上古代人は、より根元的な、宇宙天然の「イノチとココロ」のサトリに到達して居た。そして、人間の権力や経済の契約や、神への祈りを記録する類いの、文化が展開するよりも以前に、既に、より高次の、イノチとココロのサトリを伝達する「文字体系」が成立して居たのである。
そのために後代、外来文化の流入により、表層がいかに混乱していても、そのカゲには、つねにその伝承を受け継ぐ人々があってその流れは、数万年後の今日まで絶える事がなかったのである。

現代文明を誇る西欧諸国の民族も、歴史をさかのぼれば、みな、カタカムナ人的な、原初の人類のスガタにゆきつくのではあらうが、現在の彼らの用ひて居る言葉や文字は、丸で別なものに変化してしまって居て、そのカミをたどるべくもない。日本語のように、上古代人の言葉が今なほ使はれ、その意味が、現代人に通用する、というような例は、無いであろう。

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2016年03月03日

日本語の起源カタカムナ~宇宙・万象のヒビキを表した四十八の声音

現代人の精神を蝕んでいるのは、近代思想が作り出した「自分脳」と「否定脳」だけではない。学校制度が作り出した「暗記脳」も、現代人の思考力をドン底にまで劣化させてきた。そして、学校制度と近代観念が相俟って、人々を完全なる思考停止の檻に閉じ込めている。これは精神破壊とも言うべき所業であり、人類に対する致命的な犯罪である。事実、明治以降、日本人の言語能力は低下する一方であるが、その最大の原因は、学校や塾の「教える教育」にある。

「学校教育が生み出す「暗記脳」と言語能力の低下」
逆に言うと、言語能力を再生する必要に迫られているのが現代人である。
では、人類の言語能力はどのようにして形成されたのか?
そのヒントとして、原初の日本人(カタカムナ人)による日本語の起源を紹介する。
以下の文章は、相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月)より引用・要約したものです。
カタカムナ4107

●日本語の起源
最も古い文字の遺物は、金銭や物品の交換や納品の記録、経済の契約や戦勝の記録などであった。しかし日本語の起源であるカタカムナ人の残した図象文字とその文献の内容は、従来の文字や言葉の概念では律しきれるものではない。なぜなら、それは自分たちの権力や戦力を誇示しようとか、経済上の必要の為とか、又、祈祷や呪巫等の為のものでは全く無く、又、所謂「神話」の類でも無い。殊に、その文の構造は、主語、動詞、形容詞等といふ、所謂我々の文法的な常識の尺度では、到底解読できないものであったからである。

カタカムナ人は、自分たちのサトッた天地宇宙のコトワリを、子孫に伝える工夫として、まづそのサトリを表す表象物をつくり、それを説明する言葉のために、その表象物の〈ヤタノカガミ〉の図象を分解し、四十八の音を示す文字(声音符)をつくったのである。
四十八の音をきめた発想のもとは、彼らが、自分たちのスナホな体覚によって感受した、宇宙天然のあらゆるヒビキを、人間の発声できる、近似の音にうつしたところにあったと考えられる。
言い換へれば、すべて、モノが動けば音を発する。況や我々の地球や太陽のような大きなモノが、旋転(マワリ)したり循環(メグリ)したりして宇宙を運行すれば、もの凄い音響を発しているに違ひない。・・・そしてそれは人間の耳にキャッチ出来る音ではなく、人間の五感に登らぬとしても、鋭い体覚があれば、なにかしら、その気配を、感受できぬ筈はないであろう。

おそらくどの民族でも、大昔の人々はそのような機能をもっていたであらうし、現在でも、なほ、多かれ少なかれもって居る人はあり、又、鍛錬次第でよみがへるようである。西欧にある占星術等の起源も、そのような何らかの感受に発したものであったかもしれない。

カタカムナ人は、そのような、音ならぬ音を、<ヒビキ>として感受し、それを、ほぼ四十八の、人間の声で発音できる音にうつして示したと考へられる。つまり日本語の起源は、先に人間の側の意志や思念があり、それを四十八の音にあてはめたものでは無い。宇宙のヒビキが先にあって、それを感じ分けたのである。

日本語の起源は、カタカムナの上古代に、カタカムナ人の鋭い直観によって、天地宇宙の万象の発するヒビキを感受し、それを、人間の発音しうる、ほぼあらゆる声音(四十八個)にうつしたところにあった。日本語の四十八の一音一音は、おのづから、天地宇宙が、そのようなヒビキを発して居る、さまざまな様相を、表はしたものであった。それで、そのような音を、二個三個と組み合わせて構成される日本語は、当面の意味の奥に、つねに、それぞれの音の意味する、天然宇宙の様々な様相のニュアンスを、ひとりでに包蔵して居ることになる。そして、それらの二音三音が、更に組み合わされて、おのづから、五・七、五・七調のウタとなって、人々の口をついて出るのである。

●日本語の特徴
要するに、日本語のナリタチは、その一音一音に意味があり、いはば、ただの一音でも「言葉」なのである。
例えば、「○○へ」といふときは、方向を示す思念の「へ」の方が、「え」よりふさわしいわけであるが「岩」については、カタカムナ人の用例によれば「岩」が渾然と固まっている居る有様を示すときは「イワ」といひ、岩にもイ(アマの微粒子の思念、ここでは電子)の正反(ハ)がある、といふ意味のときは「イハ」といっている。なほ、同じく大きいものを表はすにも、立体的に六方にガッチリとかまへた岩(イワ)のような大きさなら「オオキイ」と言ひ、正反親和したスガタには「オホキイ」と発音したようである。

人間のアタマの機能といふものは、大本のスジさえ通っていれば、相当複雑なことでも、らくに会得しうるが、スジの通らぬことを覚えさせるには、特別なエネルギーが必要・・・日本語の教育を正すには、一音一音の基底思念を、追体験的にさとらせる事から出発すべき事から出発すべきである事を、私達はカタカムナの解読によって知ったのである。

●日本語の音感
日本語に極めて多く見られる、コロコロ パラパラ グズグズとか、サッパリ ウッカリ オットリ ポツンとはいふ言ひ方は、多民族の言葉にもある擬音語擬態語の類いではないし、同じくモノがあらわれるにも、パッと出る、ヌッと出る、ニョキニョキ出る、モジモジ出る、スー―と出て、ゾォーッとさせるのは幽霊、ヘマが出ればウンザリ、ガッカリ等々、もしその状況を、他国語に翻訳するとなると、多くの形容詞、副詞、動詞を並べ立てても、トテモ日本人同士ほど、それこそ「パッ」と通じるような具合にゆくものではない。我々の間では、例えば、イソイソとかゲッソリとか言えば、それだけでその様子が、マザマザと伝わるが、・・・・・西欧人には、その代わりに手振り身振りが発達する事になったのかも知れない。
又、例えば、ミッチリとミッシリ、シックリとユックリ、あるいはガッチリ ガックリ ガッシリ ガッポリ等の、チとかクとかシとかホとかの、唯一音の違いが、その昔、カタカムナ人のとらえたヒビキの基底思念を、何とよく保ち伝えて居ることか!

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