2017年12月28日
教育改革~日本の受験システムの不思議さ
・教育改革~自由な思考を封鎖するために共通一次試験が導入された
日本の資本主義は、労働力の信用によって基礎付けられ、
労働力の信用は、学校制度への忠誠と信用として根拠付けられてきた。
学校制度を支えたのは、学歴の価値に対する信仰であり、
学歴信仰を根拠付けたのが、受験制度である。
そして、受験制度が学生の価値を支配し、加えて日本人の価値観を深く支配してきた。
大学受験は落とすための試験である。
誰もが大学を目指すようになると、試験を難しくして振るい落とすしかなくなる。
大学受験を繰り返すごとに、入試問題は奇妙に難解さを増していく。
それに対応すべく、学校の勉強も、塾の補習も受験に照準を絞らざるを得なくなる。
そして、受験にしか役に立たない知識の習得が学校での役割となっていく。
かくして、家庭も学校も塾も大学受験に成功することが最大課題とばかりに収束していく。
その結果、大学ランキング、合格率の高い高校ランキングなど序列ができてくるが、
卒業することに全く意味の無い大学は、当然のように実社会からは全く相手にされない。
全ては、受験制度という一点において、大きく狂っている。
受験制度によって作り出される学歴信仰も、空虚な幻想に過ぎない。
空虚な受験制度に振り回される子ども達の悲鳴はとうに限界に達している。
「受験の歴史」より引用
日本の受験システムの不思議さとは何だろうか。
まず要求されている知識の習得の仕方が、そこでしか役に立たないものであるということ。
◆大学進学率増大ともに入試問題が奇妙化していった
いつ頃から日本の大学受験の形式とは、奇妙さという意味で難解なものになっていったのだろうか。
明治の時代に、最初に大学入学試験が持たれた頃は、出題の形式も、論述を中心にして大枠の知識と本質的な理解を問うものであって、それは必ずしも歪な出題の形式は持たなかったはずである。
大学受験が繰り返され回数を増すごとに、そこでは受験志願者の数も急激に増えてくる。
大学進学を志す学生達の数は増大してくるのだ。
初期の入試形態において、入学資格の決定とは、必ずしも筆記試験の内容ではなく、むしろ下の学校の推薦状や、地域の名士の推薦や親のコネといったものが幅を利かせていたものであり、それは必ずしも平等に行われていたわけではない。しかし学校への選抜的な入試制度が一般化され、大衆化され開かれたものとなってくれば、そこでは必然的に、受験における平等の体制が求められるようになる。
明治期の受験制度、大正期の受験制度、そして昭和に入り戦前の受験の体制の段階では、受験というのは、まだまだアバウトな勘定で行われていた節は強い。受験の体制というのが、本格化し、大衆化し、そしてマスな現象を機械的に均等に裁くことによって回転するようになるのは、戦後の教育体制になってからのことである。
戦後でもまだ最初の頃は、出題形式において、わざと難しくするような、奇を衒っているような、入試の為の入試といった問題形式は、特に広まってはいない。入試の為の入試という形になって、入試問題の奇妙な形式的変化が現れるのは、団塊の世代として、ベビーブームの波によって日本で子供の数が急激に増えてきて、社会は高度成長の波に乗り、大学進学者数が増えてきた段階に生じてきたものである。
受験のための受験という形で、大量の進学希望者を捌くために、出題内容の奇妙な形式的難問化として進行した。
受験とは、極度に難しくなる、そこだけの、そこだけでしか通用しない近視眼的な知識の世界、その形式的世界を形成していった。
入試問題の形式とは、日本人が背負った奇妙な無意識的発明の形式となっていく。
◆欧米との違い
大学の入学試験は、受験志望者の増大によって難易度を高くしてきた。
日本の大学制度で特徴的なのは、入試の時点でその階級的なランクを殆ど決めてしまうということにある。
つまり大体18歳から20歳くらいと想定される大学入学の時点で、その後の、労働力商品としての価値を決めてしまう。
最初に価値の指数を決定してしまう。
こうして、日本の大学とは、入るのだけがやたら難しく、しかし入ったらもう勉強しなくても、学生の社会評価が特に落ちるということもなく、卒業後の労働市場に出て行くという現象が定着してしまった。
これは大学制度の近代的に発達していた欧米の大学制度とは異なるものであった。ヨーロッパの伝統的な、長い大学制度に起源をもつ欧米の大学とは、まず入学時点で、そんな難解な入試形式が課せられ、過度の、それだけのための知識競争が行われるというようなことはない。有り得ない事態である。
欧米の大学では、入学の時点では学生はアバウトに入ってくる。学生の真価として、学生の価値が決まってくるのは、大学に入ってから個人が如何に自分で勉強をしたかということであり、最終的な学生個人の価値とは、その後の本人の努力にかかっている。
故に、欧米の大学では、大学を途中で移動するということは頻繁に行われており、一流大学と呼ばれるような大学であっても、最初からそこの生徒であったということは別に意味を為さない。いろんな学校の経路でもって、下の段階から様々な通路で卒業資格を目指して、大学を渡ることによってキャリアを積み重ねるという在り方とは、普通のこととして通っている。日本のように、最初に入った大学でそのまま最終学歴を終える数が殆どだというのとは違う。
◆空虚な受験システム
入口のところでその後の価値も大体決めてしまうという、形式的排除の方法論において、このシステムは日本の特徴的な性質を決めてきたといえるのだ。日本の大学受験形式が、そこでは受験独特の受験の為の受験といった複雑怪奇な問題形式を、形式主義的に生み出し、しかもこの奇妙で非合理的な形式主義は、人間の形式的排除の方法として、入口だけがやたらに難関で、しかし中に入ったら中味はほぼ空虚という、キャリアの通過の方法を編み出したのだ。
最初の時点で、個人における大枠の価値付けを決めてしまう。この形式的難関だけがそこには口を開いているのであって、中に入っての出来事とは、ほぼ空虚である。やってもやらなくても卒業資格の価値においては殆ど関係ない、意味を為さないという、体制である。
しかしこの形式的空虚の体制を実現してきたという意味で、それはとても日本的に特徴的な、独特の社会システムとなり、機能していたのだ。
- posted by TOKIO at : 2017年12月28日 | コメント (1件)| トラックバック (0)