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2017年12月30日

2017年12月30日

秦氏の出自・歴史

『人文研究見聞録』「秦氏とは?(秦氏と日本)」を要約したもの。

●秦氏の出自

秦氏は、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済国より大挙して渡来して帰化した氏族とされているが、渡来時期や先祖については諸説あり、未決着。以下、伝承や文献における秦氏の来朝履歴のまとめ。

・『徐福伝説』→ 『史記』によれば、徐福は秦始皇帝の命を受けて、東方に不老不死の霊薬を探しに行った。日本各地に残る「徐福伝説」によれば、徐福の後裔が秦氏となったとされる。

・『秦氏本系帳』(秦氏の系図)→ 第14代仲哀天皇の時代に渡来した功満王(こうまんおう)を祖とする。
・『古事記』→ 第15代応神天皇の時代に渡来したと記される。
・『日本書紀』→ 応神天皇14年(403年)に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする。
・『新撰姓氏録』(平安時代に編纂された古代氏族名鑑)→ 応神天皇14年(403年)に融通王(弓月君)が127県の民を率いて来朝したと記される⇒ 古代中国の秦始皇帝の末裔であるとも記載されている

●秦氏の歴史

・秦氏は、初めに豊前国(現・北九州)に入って拠点とし、後に中央政権へ進出していった。

古代中国の隋代(6世紀末~7世紀初頭)の歴史書の『隋書』には、倭国には「秦王国」とされる地域があったことが記されている。「翌年(608年)、文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」

要約すると、この時代に当時の中国と風習を同じくする民族が住んでいる地域があり、そこを「秦王国」と言ったということ。この記述からすると、百済国から来たとされる秦氏は、実はかつて大陸に居住していた民族であり、国々を転々としていた遊牧民族だったのではないかという仮説が浮かぶ。

その後、 大和国・山背国・河内国・摂津国などに入って土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。

⇒ 山背国では、葛野郡(現・京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現・京都市伏見区深草)→ 丹波国桑田郡(現・京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

・雄略天皇の時代には秦酒公が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた。 『日本書紀』によれば、秦酒公は「太秦」の姓を賜り、その名を土地の名とした。
・欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられ、 本宗家は朝廷の財務官僚として活動。⇒ 『日本書紀』によれば、欽明天皇の夢の中で「秦大津父を大事にせよ」という神託が下ったことがキッカケ。

→ 現在の淀川の治水工事として、茨田堤を築堤する際に協力した。→ 山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、⇒ 山背国愛宕郡(現・京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。

・用明天皇~推古天皇の時代には秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子の側近となって活躍した。『聖徳太子伝暦』によれば「丁未の乱」の際に、物部軍の物部守屋の首を落としたのは秦河勝とされる
→ 荒陵に四天王寺を建立する際には、秦河勝が出資を担った。
→ 秦河勝は太秦に広隆寺を建立した。

・685年、天武天皇の八色の姓では忌寸の姓を賜与された。 忌寸のほかにも公・宿禰などを称する家系があった。

・飛鳥末期より、秦氏は多くの神社を建立した。松尾大社や伏見稲荷大社などを氏神として祀った。(伊勢神宮の建立にも関わり、財力や技術力を提供したという説もある)
→ 秦氏は、相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植。

・平安遷都に際して、葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だった。 平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。 東家、南家などは松尾大社の社家に、西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった。

●秦氏の関わった神社

・伊勢神宮(三重県)→現在の伊勢神宮建立(7世紀末)には、秦氏が財力や技術力を提供したとされる⇒「元伊勢」の創建にも関わったとも。

・香春神社(福岡県)→崇神天皇の時代に建立されたという古社。秦氏が古くは九州に上陸した際に建てたものとする説。

・宇佐八幡宮(福岡県)→八幡神社の総本社⇒「八幡」の「幡」は「ハタ」を指すことから秦氏の神社でする説がある。秦氏の支族である辛嶋氏の神社とも。

・松尾大社(京都府)→大山咋神(松尾大神)を祀る⇒大山咋神(おおやまくいのかみ)は秦氏の神とされる。

・伏見稲荷大社(京都府)→秦氏である秦伊侶具が創建した。

・愛宕神社(京都府)

・上賀茂神社(京都府)→賀茂氏と秦氏は関連性がある。
・下鴨神社(京都府)→賀茂氏と秦氏は関連性がある⇒下鴨神社にある糺(ただす)の池は、土用の丑の日に手足を洗う祭が行われる。かつて天皇家は、ここで禊(みそぎ)を行ったといわれる。

・木嶋坐天照御魂神社(京都府太秦)→蚕の社、木島神社とも。蚕養神社の存在から、養蚕を生業としていた秦氏との関連性が見られる。キリスト教ネストリウス派の三柱鳥居は、秦氏が持ち込んだとも

・大酒神社(京都府太秦)→広隆寺付近に鎮座する秦氏の氏神を祀る神社
・大避神社(兵庫県)→兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る。対岸の生島には秦河勝の墓がある。かつては「大闢神社」と書いており、「大闢」とは中国語で「ダビデ」と読むことから「ダビデ神社」とも。

・出石神社(兵庫県豊岡市)
・子部神社(奈良県秦庄村)
・敢国神社(三重県)
・志呂志神社(滋賀県)
・兵主大社(滋賀県)
・日吉大社(滋賀県)→大山咋神(松尾大神)を祀る

・金刀比羅宮(香川県)→別名「旗宮(秦宮、はたのみや)」とも
・白山神社(本社は石川県)→白山信仰の聖地である白山を開いた「泰澄(たいちょう)」は本名を「秦泰澄」といった⇒事実、白山信仰のルーツは古代朝鮮にあるといわれる⇒一説には、白山の白とは、新羅の発音「シルラ」に由来するともいう。

・諏訪大社(長野県)
・鹿島神宮(茨城県)

●秦氏の関わった寺院

・四天王寺(大阪府)→四天王寺は、聖徳太子が創建の代表者であり、秦氏が財力や技術力を提供したとされる
・広隆寺(京都府)→秦河勝によって創建
・乙訓寺(京都府)
・宝菩観院(京都府)
・秦楽寺(奈良県)→秦楽寺(じんがくじ)の門は中国風の建築様式から、秦氏が中国系渡来人であると称していたこと。
・蟹満寺(京都府)→功満王(こうまんおう)の名に由来するといわれる蟹満寺(かにまん)。
・法輪寺(奈良県)
・安養寺(京都府)

 

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