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2020年3月22日

2020年03月22日

原始人類の自然認識~宇宙・自然との一体充足

原始人類の自然認識は、どのようなものだったのか?
その手掛かりとして、北米・南米の先住民族の自然観を紹介する。
彼らは、自分たちが宇宙や自然と一体であると感じており、「自分らしさ」という言葉が存在しないらしい。

『るいネット』「不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰」

「存在不安」は、私権時代の全ての宗教・全ての局面に存在すると私は考えています。キリスト教においても、仏教においても、人々が求めるのは「救済」です。神の御座に祈るのは、魂の救済であり心の安楽であるのは洋の東西を問わず変わりません。これこそ、私権社会の宗教が「存在不安」を抱えている証ではないでしょうか。その背景にあるのは、自我を基盤に宿した私権社会故の 過剰競争・自我摩擦・搾取等の不条理からの逃避、そして「死」への恐怖と言えるのではないでしょうか。

対照的に、 ケチュア等、ネイティブ・カルチャーに見られる、精霊信仰の発展した「純粋形態としての宗教」において捧げられる祈りは「感謝」と「同一化」です。 いくつか、彼らの言葉を紹介します。

 われわれにとって、宗教とは生活様式であり、知であり、理解力である。 自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結ぶことである。 われわれインディアンは自然の力のすべてを神として崇める。自然の力を恐れているからではない。自然の力を超自然的な存在として見ているからでもない。われわれが自然の力の法則の正しさをよく知り、よく理解してきたからである。われわれは自然の力、その法則に敬意を払い、自然の力がわれわれの生活に恩恵を与えてくれることを深く認識している。 (北米 ケチュア族)

 我々の言葉で、「生きる」ことは「呼吸」と同じです。宇宙の全ては呼吸しています。ですから、命を授かった時点から地球のサイクルに入り、宇宙の全てと呼吸を共有しているのです。生命を授かったことに責任を持ち、自らを啓蒙しながら自分の道を歩まねばなりません。それこそが地球を通過している本来の意味なのです。私たちの伝説の中では、命が絶たれたあと、我々は宇宙全体の命を支えている全宇宙的なパワーの一部となるのです。 一個の生が個人的体験を超えて、全宇宙的に広がっていくのです。それは一つの「希望」です。「死」に恐れを感じる必要はないのです。
人間は鳥のように静かに飛び去っていくことができる。地球を通りすぎるだけなのに、なにか記念碑を残してゆくような人は、 それだけ自分に自信がないのです。
なにかを成すために人間は存在していると西欧の人は考えるが、なにも成さないためにいてもいいじゃないか。 人間は宇宙の一部であり、その宇宙そのものが素晴らしい記念碑であり、創造物なのですから。 (以上、南米 クレナック族)

朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、感謝することだ。 どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。 (北米 ジョーニー族)

このような、彼らの言葉の中に、「存在不安」の影は微塵も感じられません。自らと、全ては同一であることを知り、そこに存在することに、ただただ感謝を捧げるのみ。 現世からの救済を願う、存在不安を抱えた私権社会宗教(キリスト教等)と、万物と同化し、その存在に感謝を捧げるネイティブ・カルチャーの精霊信仰では 雲泥の差があります。 我々は、彼らから多くのことを学ばなければならないと感じます。

 『るいネット』「自分らしさを理解できない人々」

随分前に先住民族の文献で読んだのですが、彼らは「自分らしさ(MYSELF)」と言う観念が理解できないそうです。(むしろ理解できないと言うよりも、存在しない)

彼らは、自分が大地の一部であり、(大地と)同一であると考えているため、その大地の上に立つものは全て「同じもの」だと理解しており、ネイティブであるかどうかや、宗教に関係なくその認識を持っているようです。「大地に立つもの全て」であるので、獣や鳥、花や木々にまでその認識は及びます。

当時僕は、「自分らしさ」と言う観念を持たない彼らを今一イメージできずにいましたが、ここのところの構造認識・パラダイム転換の議論を通して、なんとなくその意味するところを実感できた気がします。

彼らは、何よりも、人々の意識(皆)=自分=現実であることを理解していたのだと思います。そのために、現実(皆の意識)と自分の意識を切り離して理解することが出来ないのでしょう。「大地に立つものは全て同じ」と言う考えは、世界=現実を理解する構造認識と言えるのかもしれません。

「世界」と「自分」を切り離し、「自分が自分である理由」=自分らしさを追い求めて来た、現代人。しかし、そこには答えなどなく、空しさと孤独感だけが付きまとう。

しかし、「自分らしさ」と言う観念を持たない彼ら(ネイティブ)は、不安に怯えるどころか、常に自信に満ち溢れ力強く、存在不安の欠片も見られない。

いかに、僕達に刷り込まれた「自分らしさ」と言う観念が倒錯したものであるかがわかります。それは同時に、「現実=人々の意識=自分」と言う構造認識の正しさを知ることでもある。 おぼろげながらではあるが、ようやくその構造認識にたどり着いた僕達。どうやら僕達現代人は大きな回り道をしてしまったようです。

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