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2006年12月30日

消費型文化を西洋が生み出したのは自然破壊と移動の歴史から

西洋文明と東洋文明の違いはどこから生じているのか。
中村忠行氏のサイトでその対比を文明拠点の移動という観点から捉えた記事があり、なるほどと思いましたので紹介します。
http://joumontn.com/mori&hito/062.html

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西洋文明を回顧すると、たとえばアジアを代表するチャイナ文明が、多くの民族の攻防そして興亡の果てにも、依然として黄河流域に留まっていることから見て、メソポタミアに発したあと現在に至るまで、その興亡のなかで絶えず移動していったことに驚かされる。
 メソポタミアの地を争ったアッシリア・アッカド・バビロン・ヒッタイトなどの文明の盛衰を経て、文明の中心はまずシナイ半島を経由してやがてエーゲ海へと移動する。次いでミノア・ミケーネ文明から、アテネ・スパルタ・コリントと、ギリシャを中心として繁栄し、次第にローマ帝国の地中海文明へとその覇権を譲っていく。ヨーロッパ全土から中東にまで版図を拡げたローマも、フン族に追われたゲルマン民族の侵入によって次第に衰退し、ついに東西ローマ帝国(395~)に分断されることになった。
 ではユーラシアの東側の文明と違って、なぜ西側の文明は移動していったのだろうか。ポール・ケネディ『大国の興亡』は、この地の政治的多様性について、地政学の見地から、「黄河や揚子江、インダスやガンジスなどの大河も、広大で肥沃な平野を持たなかったこの地の地勢」を挙げる。
 ヨーロッパは地理的に分断されていて、人びとは山や広大な森林によって隔てられられた谷あいのあちこちにかたまって住んでいた。気候も北と南では相当にちがっている。こうした地理的な特性のために数多くの重要な結果がもたらされた。いかに強力な領主が努力しても統一的な支配を確立することが困難であり、さらにモンゴルの遊牧民のような外部からの侵入者が入ってきても、全土を蹂躙される可能性は小さかった。 (中略) ローマ帝国崩壊後のヨーロッパの政治地図は常にパッチワークのキルトにも似ていたのである。このキルトの模様は世紀によってさまざまだったが、一つの色が全体を染め上げることはついぞなかったのである。

 
メソポタミアから始まった西洋文明は、その中心をシナイ半島、エーゲ海、ギリシャ、ローマ・地中海、さらにはアメリカ大陸へと、常に場所を移動しながら続いていきます。
西洋文明は常に戦いを繰り返し、森林を伐採・破壊し尽くして次の地へ移動していくことを繰り返して行ったようです。
戦いの勝者が入れ替わるたびに森が破壊されて行ったわけですが、自然は征服し利用するものという考え方が根底に流れており、略奪闘争が常態化する中で自然は同化対象ではなく人々が支配していくものとなっていったのだと思います。
同様に、家畜や農作物に害を与える野生動物は徹底的に殺戮され、絶滅していった種も多々いるようです。
現在の大量生産、大量消費、大量廃棄の文明は、メソポタミアから続く破壊と移動の歴史から当然生み出されていったものだと思いました。

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家族単位のピー信仰というのは、分かるようでよく分からない奇妙な感じがします。
日本では仏壇と神棚があり、仏壇は祖先、神棚は八百万の神を祀っている。
ピーは仏教伝来以前の精霊信仰なので、神棚の系列だと思うが…。それが祖先と合体した?
同じ東洋の稲作民でも日本とは違うのかしら?うまく言えないが何となく分かりがたいですね。

  • 台高
  • 2007年1月15日 00:15

nike moc

共同体社会と人類婚姻史 | タイ族の「ピー信仰」

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