2008年03月25日
京都の農村で村落共同体が、崩壊した時代。
土地の『共同所有』とその構成員の『共同労働』に基づく」村落共同体が、明治以降に急激に崩壊してきた過程を多くの貴重な写真も含めて紹介しているサイトがありました。ご紹介します。
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京都府のサイトの中に貴重なDATAを、見つけました。
「写真で見る人と自然環境・地域共同体とのかかわりの変化 」 大阪府立大学総合科学部 中村治氏 のページです。写真は全てここからお借りしました。その他多くの興味深い写真があります。
山科の農家の人が京都へ肥料を集めにこの峠を越えた。昭和24年(1949)。
村落共同体の崩壊の原因は、次の2点であると言っている。
①商品が農家に入り込む
→自給自足に近い農家が、お金がないと生きられない市場社会に組み込まれる。
→兼業農家の急増へ
明治30年には既に36%の兼業農家になってしまい、市場社会の配下に組み入れられてしまっている。
農家は、明治前期には作付面積の拡大と反当収量の増大によって収入増加をはかり、明治末・大正初期には反当収量の増大によって収入増加をはかった。・・・・・(中略)・・・・・・
しかし反当収量を増やそうとすれば、優良品種を導入するだけでなく、肥料も改善しなければならない。ところが大豆油粕、鰊搾粕、化学肥料を購入するには金がいる。わずかな収入しか得られない一般農家にとって、金肥の購入は容易ではなく、自給可能な人糞尿、厩肥、堆肥、柴草、青草、ワラ、草木灰、鶏糞に頼らざるをえなかった。
人糞尿もよその家のをもらおうとすれば、無料ではすまされなかったが、米や野菜などをお礼とすることですますことができたのであろう。
近郊農家は都市部へ人糞尿の汲み取りに行かせてもらったのであった。
それでも農家にも商品経済が浸透してくると、収入がたいして増えないのに、支出がどんどん増えることになる。そこで明治10年代から農家の兼業化が進み、明治30年(1897)には兼業農家率が36.8%にも達している。
②農作業の機械化
→『共同労働』の急減 ≒ 個人的な農家に
※耕運機だけでなく、田植え機、稲刈り機が普及して、共同作業が少なくなって行く。
40~50年ほど前は、田植えや、稲刈りなどの共同作業では小学生も大切な労働力でした。ですから小学校も「田植え休み」「稲刈り休み」といって、学校が数日間は休みでした。
しかし機械化の波で共同作業が機械化されてしまい、農作業は『共同労働』から家族単位に縮小してしまいました。
農作業の機械化は、昭和初期にエンジン付きの籾すり機械によって始まったようである。しかし戦争が始まり、石油を節約するため、昭和13年(1938)頃にはまた土臼を用いての臼すり、手動式の臼すり機を用いての臼すりに戻っていった。しかし戦後、早い時期に、エンジン付き籾すり機を持つ人に仕事を依頼するようになったのであった。
エンジンの回転運動をベルトで脱穀機に伝えるという方式を用いての動力脱穀機は、京都には、昭和12年(1937)頃に登場したようであるが、これも戦争による石油不足のために姿を消してしまった。それが少しずつ普及していったのは、昭和25年(1950)頃からのようである。戦後、大八車のゴムの車輪、リヤカーがよく出回り始めたのも、昭和24-25年(1949-1950)頃であった。
耕運機は、それより少しおくれ、昭和30年(1955)を過ぎたころから少しずつ普及していった。それは写真からもうかがうことができる。
このような機械化により、農家の兼業化が進んでいったが、麦や菜種の収穫と田植えが集中する6月、稲の収穫と麦の植えつけが集中する10月、11月の農作業は、兼業してできるようなものではない。
多くの農家は昭和30年代中頃から麦や菜種という裏作をしなくなり、稲だけを作ることによって、兼業化を進めていったのであった
※以下は、「写真で見る人と自然環境・地域共同体とのかかわりの変化 」からの、興味深い写真の抜粋です。
牛を使っての田鋤き風景。田植え前。様子を変えた。昭和40年代初期。
田植え前にはお田植え祭。昭和12年(1937)6月。「神餞田、岩倉村青年団」などと書いてある。
田植え。腰を曲げて行うのでつらい作業であった。昭和9年(1934)。上賀茂。右上に見えるのは比叡山。
麦刈り。麦が植わっている田の場合はまず麦を収穫し、それから田をおこし、肥料をやり、水田にして、田植えをする。昭和14年(1939)
田ではたらいてもらい、家族同様に大切に育てた牛も、4歳ぐらいになると、肉牛として売ることになる。
昭和31 年(1956)
千歯ごきを使っての脱穀。背後には割木が高く積み上げられている。昭和20年(1945)頃。
刈り取った稲を稲架(はさ・いなき)にかけて乾かした後、 足踏み式脱穀機で脱穀。昭和14年(1939)11月
稲の収穫を終えると、乾田は土をおこし、そこに麦を蒔く。これは牛を使って、土を細かくしているところ。昭和30年(1955)12月。
脱穀した後、わらは捨てることなく、縄をなったり、正月用のわら細工を作ったり、牛小屋の敷き藁にする。昭和50年(1975)頃。
子どもがリヤカーでたきものを運んでいる。 昭和38年(1963)。
笠置町で購入した自動耕運機。個人で購入する前に、まず、町などで購入したのであろう。昭和29年(1954)。
- posted by koukei at : 2008年03月25日 | コメント (2件)| トラックバック (0)
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comments
このシリーズ、かなり納得しています。
親指の太さは、直感的にも「ものをつかむ」ことと関係してそうなことは分ります。
霊長類なら枝をつかむ、人類なら木などの武器をつかむ、と想像していたのですが、骨を砕くための石が最初だったとは…。
しかも親指が太い霊長類は、食物をたたきつけるなどして食べる共通項まであるとは…。
アイアイもそうなんでしょうか?
番外編、大いに楽しみにしています♪
>大杉さん
いつも見ていただいてありがとうございます。(*^ – ^*)ゞ
アイアイの場合はもっとも太い親指ゆえに可能になった食性があります。vol.5でご紹介させていただこうと思っています。
霊長類の様々な手への進化?退化?を見ていただくと、人類の足の指が拇指対抗性でない形をしている謎のヒントが見えてくるかも知れません。
どんどん続けて行こうと思っていますので、楽しみにしててください。ほんと面白いですよ°・:,。★\(^-^ )♪
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