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2008年04月24日

「子守り歌」は貧富の差がもたらした悲しい歌だった・・・

😀 「京都の農村で村落共同体が、崩壊した時代。」http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/03/000374.html koukeiさん
でも紹介されているように、村落共同体が明治以降に急激に崩壊していきました。
その背景には、市場の拡大があります。
次第に自給自足では生活が困難になった農家(小作人)は、労働力にならない 小さなを、農奉公として地主等家に雇って貰うしかない状況になりました。(もちろん男児も例外ではない)
の主な仕事は、赤ん坊の守りをする事で、身体も未成熟な子供が赤ん坊の面倒を見るという今では想像も付かない事だったのです。
その時代背景がもたらしたのが「子守り歌」です。
これまで「子守り歌」とは、優しく癒される様なイメージでしたが、歌詞の内容と史実を合わせてみると、とんでもなく辛く暗いものだった事を知りました。
😥 こういう現実を、歌で紛らわすしかなかったというのつらさが伝わってきます。
🙂 今日は、その子守り歌でもよく知られている「五木の子守歌」を紹介したいと思います。
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以下引用です

子守りが社会的に要求された時期は、江戸時代の末期から明治時代にかけてです。商品経済(商業)が発展した結果、商業的・高利貸し的な資本が農村にまで侵入し、自給自足経済から貨幣経済へと変わっていく時に、貧富の差が拡大し、貧しい者はより貧しく、富める者はより裕福になってきました。そこで必要になったのが安い労働力でした。このようにして窮乏農民の子供達が、不幸にも幼くして働く場を与えられたのです。「食い扶持」を求めて「口減らし」のために、中流以上の農家や商家に奉公に出されたのです。男子は丁稚・小僧として、女子は子守り・走り使いとして働かされることになったのです。この墓に、明治維新後の徹底した堕胎禁止によって人口が急速に増加したため、子守りに対する需要も増えたと考えられます。

http://komoriuta.cside.com/report/kanj20021101a.html
子守歌の本文とその翻訳です

「五木の子守歌」※()内はその意味
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどる
(子守奉公も盆で年季が明け 恋しい父母がいる古里に帰れる日が待ち遠しい。)
おどんが打っ死(ち)んだちゅうて だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く
(遠く離れた所に子守奉公にきて私が死んでも だれも悲しまない ただ蝉が鳴くだけでさびしい。)
おどんが打っ死(ち)んだら 住環(みち) ばちゃ
埋(い)けろ 通るひと毎(ご)ち 花あぐる
(私が死んでも墓参りなどしてくれないだろう それならば人通りがある道端に
埋葬してもらったほうが誰かが花でもあげてもらえるだろう。)
花はなんの花 ツンツン椿 水は天からもらい水
(あげてもらう花は何でもいいが 道端にたくさんある椿でよい 水がなくても雨が降ってくるから。)
おどんがお父っつあんは あん山(やみゃ)おらす おらすともえば いこごたる
(私の父は遠くに見えるあの山で仕事をしているだろう 
又あの山の裾に古里があり早く帰りたい気持ちが増々大きくなる。)
おどまいやいや 泣く子の守にゃ 泣くと言われて憎まれる
(子守にとっては泣きやまぬ子はどうしようもなく どんなにあやしても泣きやまない
子守の仕方が悪いと叱られる。)
ねんねした子の 可愛さむぞさ おきて泣く子のつらにくさ
(子守背中ですぐ寝る子は 子守にとって楽であるが いつまでも泣いて寝ない子は 
普段は可愛いけれど 憎らしい。)

「歌詞の意味」五木村HPより
http://portal.kumamoto-net.ne.jp/vill_itsuki/content/asp/komoriuta/imi.asp?PageID=70
自らも未熟な身体であるのに、幼い時期からの奉公は辛いことだった事でしょう。
こういう史実(奉公)は市場が軌道に乗るまでの短期間だったという事ですが、この過酷で無惨な過去も事実として受け止めなければいけないと思いました。

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