2009年03月25日
フランスのカップル社会とは?第3弾 西洋の婚姻史
フランスのカップル社会(婚姻制度)とは?をシリーズでお届けしています。
第1弾http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/02/000534.html
第2弾http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/03/000540.html
今日はその続き「第3弾」をお送りします。
カップル=一対婚制度の追求となりますが、ここで避けては通れないのが「キリスト教」です。
よって、この「キリスト教」の影響と、その成立過程の歴史を婚姻制度と共に追ってみました。
古代ローマ帝国の遺跡群
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まずは、キリスト教以前の婚姻制度はどういうものであったのでしょうか?
その変遷です。
<婚姻制度の変遷>
(以下引用)
近代西洋文明にみられる婚姻制度は、ギリシャ、ローマ、ヘブライ、およびキリスト教の伝統を主流とする長年にわたる発展の産物である。キリスト教流の婚姻の観念が生ずる直前まで、ユダヤ人はゲルマン人と同様に一つの婚姻の型を持っていた。
それは、初期にはギリシア人とローマ人が持っていたものと同じ、父系の首長の統率する親族集団支配の社会にきわめて自然な型であった。こうした社会構造は、極端な形では初期のローマ社会にみられたものであり、今日でも、ある程度はイラクやアラビアの遊牧民ベドウィン族にみることができる。
そこでは男女いずれを問わず、全ての個人が父系の首長の支配する氏族に所属していた。女性は、婚姻によって初めてその生まれた氏族から離れ、夫が首長として、あるいは首長の子、孫、または養子として所属する氏族へと入ったのである。盗妻の場合を除けば、女性は自己の属する氏族の首長の協力なくしてその氏族から離れることはできず、男性は同じく首長の協力なくして妻をめとることはできなかった。
かくて婚姻は、二人の直接の当事者間の出来事ではなく、それぞれの首長間の取引となる。さらにこの組織のもとでは、婚姻の定義に不解消という観念はまだなかった。首長は氏族の成員追放の絶対的な権力をもっていたから、自分自身の妻、息子の妻、そのほかあらゆる成員の妻を放逐することができたのである。
もっとも、この権限の行使には、自分の氏族ないし女性が婚前に所属していた氏族がいわれなき追放を承認しないことがあるという制約があった。しかし、ともかく婚姻の終結も、その開始と同様に二つの関係氏族の首長間取引としてなされることが多かったようである。
(中略)
しかし、ギリシア人、特にローマ人の間では急激な変化が起こっていた。初期ローマでは婚姻は、当事者がコンファレアチオか、コエンブチオという儀式を行うことによって結ばれた。古代においても、このような儀式が絶対に必要であったかどうかはっきりしないが、後の共和制の時代からは、一切の儀式なくして、少なくとも法に規定されたいかなる儀式もなくして婚姻を開始することができるようになった。
むろん、婚姻のように重大な意義をもつ出来事が、宗教的な祝典とか家族の祝宴を伴ったことはありえよう。しかし、正当な婚姻関係そのものは、単に相互に夫婦になる意思を持つ当事者が同棲を開始することによって成立したのである。さらにこの自由な結合は、その開始と同様に、当事者のどちらからでも自由に終結させることができた。
ローマ帝国の東部の人口の大半を占めていたギリシア人とギリシア化されたアジア人は多かれ少なかれローマ人、ゲルマン人、その他ローマ化された人々と同様な状況にあった。つまり、婚姻は自由に開始され、また当事者のどちらからでも、任意のときに定まった形式もなく終結させることができたのである。(引用終わり)
http://www.pionet.ne.jp/~tuemori/marriage.html
以上から、
ユダヤ人、ゲルマン人(ローマ帝国以前)
(父系)首長が統率による親族集団支配で:『勇士婚(集中婚)』
ローマ帝国
婚姻は自由に開始され、また当事者のどちらからでも、任意のときに定まった形式もなく終結させることができる(支配者層のみ):『勇士婚→乱婚』
・・・が、キリスト教布教以前の婚姻制度と捉えられます。基本的に、上流階級=支配者層が権力を握り、集団を支配していた事が伺えます。
その後、キリスト教の布教によって変革が訪れます・・・。
<キリスト教と婚姻>
(以下引用)
古代に広く行き渡っていた婚姻の様態は、キリスト教によって根底から変革された。キリスト教が築いた伝統では、婚姻とみなしうる性関係は、一夫一婦でなければならず、生涯をかけた夫婦の共同生活と結びつき、かつ貞操の義務を特徴としてそなえていなければならなかった。
同時に、この夫婦の結合は決して解消ならないものであり、四世紀にアウグスチヌスによって確立された秘跡の教理と結びついて、特別な厳粛性をもつにいたったのである。婚姻は、、それが秘跡であるというこの教義により、神の恩恵の媒体たる高い次元にまで達した。婚姻は、いまや夫婦相互、子供、そして神に対して、当事者が最高の責任を持つこととなった。それは崇高な理念ではある。
しかし、実際生活においてどの程度までこの教理に即しえたかは判然としない。これを判定するには、男性の不貞が長い間寛大に扱われてきたことと、売春、蓄妾の制度が黙認されてきたことを考慮する必要がある。配偶者以外の者との性交を絶対に認めないという意味での貞操の義務は、長い間女性の側だけに適用されてきたのであり、それが男性に適用されるようになったのは、もっと近代になってからである。(引用終わり)
http://www.pionet.ne.jp/~tuemori/marriage.html
以上から、
キリスト教(ローマ帝国以降)
生涯をかけた夫婦の共同生活、貞操の義務による:『一夫一婦婚』
※実態は女は道具という意識と、売春・蓄妾の制度が黙認されていた
と捉える事が出来ます。
教会が勢力を持ち始めた4世紀以降、キリスト教の広がりは目をみはるものがります。
これだけ一気に広がったキリスト教の引力とはいったい何だったのでしょうか?
また、キリスト教は唯一 『一夫一妻制(一対婚制)』 をとったのはなぜか?
・・・という事で、まだまだ疑問が絶えませんが、今後の継続テーマにしたいと思います。
- posted by minene71 at : 2009年03月25日 | コメント (7件)| トラックバック (0)
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comments
<原人段階>(約200万年前~25万年前(一部4万年前まで))は、石器の開発、アフリカからでて人類拡散と、観念機能を含め、かなりの進化を感じてしまいます。
北京原人や、ジャワ原人、ひょっとすると日本にも原人がいたりして!この辺りの人類の状況や知能、食性など非常に興味あります。
これだけ拡散いたのなら、もう骨食ではなくなったと考えた方がいいのでしょうか?
外圧低下による人口増⇒人類拡散したと考えていいのでしょうか?
図解を見ると、アジアに進出した原人の生存期間は175万年間、アフリカにいた原人は130万年間生存していたようですが、この違いは環境の変化ですか?
アフリカで滅亡した原人は、ドナウ氷河期が影響しているように、図解から読み取れますが、もっと北にいた北京原人たちは、なぜ生き残れたのでしょうか?
マニマックさん、こんにちは。
アジアに進出した原人はどんな生活(植生や住居など)だったのか?
アフリカの原人が絶滅してもアジアの原人が生存を続けたのはなぜか?
確かに気になることが沢山ありますね。ここは今後の課題として追求する必要がありそうです。
「原人」の探索担当(?)のkichomさん、次回のテーマにしてみませんか。
kichomさんって、
【初期人類:出生時から大きいホモ・エレクトスの脳が教えてくれること】を書かれている方ですよね。
あのブログは非常に興味深く読ませていただきました。
猿人については、かなり勉強させていただきましたが、原人・旧人に関しては、まだ記事が少ないようですが、とっても楽しみにしています。
これからも継続追求楽しみにしています。
図が違います。
moncler outlet trebaseleghe 2011 共同体社会と人類婚姻史 | 始原人類の婚姻制について~課題の中間整理と今後の展開
共同体社会と人類婚姻史 | 始原人類の婚姻制について~課題の中間整理と今後の展開
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