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2009年04月23日

中山太郎の「日本婚姻史」から~共同婚~☆8☆大原の雑魚寝とは?

%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%9B%91%E9%AD%9A%E5%AF%9D.jpg こんばんは。風が爽やかな季節になってきましたね
さて、前回は、主に神社で行われていた性的神事についてご紹介しました 😀 今回も、同じく神社で行われることの多かった、「雑魚寝」についてご紹介したいと思います。雑魚寝と言っても、布団が足りないからとりあえずゴロ寝 というのではなく、男と女の雑魚寝の話です
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※画像は、「好色一代男」より、洛北大原神社の雑魚寝の様子です。

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第六節 共同婚の余俗としての雑魚寝

『順徳天皇の御作と伝えられる『八雲御抄』に、天下の五奇祭として、洛北大原社の雑魚寝、江州筑摩社の鍋被り祭、越中鵜坂社の尻たたき祭、常陸鹿嶋社の常陸帯の神事、奥州の錦木が挙げてある。これら五奇祭がことごとく性的祭事であって、しかも直接間接に婚姻に関係があるのは、実に不思議である。このうち常陸帯の神事については既に記したが、他は追々記すとして、ここでは大原社の雑魚寝について述べ、さらに同じ系統の他の地方の雑魚寝と、目的を異にする雑魚寝に言及し、この土俗が共同婚の余俗であることを明らかにしたいと思う。』

まずは原文から、中山太郎氏の問題意識です。雑魚寝にも何種類か系統があるので、それを紹介しながら、雑魚寝が共同婚から派生したものであることを明らかにしていきましょう!ということですね。では、さっそく事例紹介にうつります。

★一時の結婚生活を意味したる雑魚寝
山城の国大原井出の江文神社
 節分の夜に男女が集まり雑魚寝をする。投身して死んだ女の怨霊を恐れて神社に集まり寝たのが起源と説明されるが、それはこじつけであって、その発生が共同婚制に由来する神判成婚の一方法と見るべきである。
大原の雑魚寝が有名になったのは、宮廷歌人の歌枕に選ばれたことにあるのは言うまでもないが、村民がこの土俗を懈怠なく保存してきたことも有力であったに違いない。そもそも、この大原は性的行事には深い関わりがあり、巫娼として活動した大原神子はこの地に発生したもので、建保二年の東北院職人歌合の大原女の判詞の一節に「大原の里には神のちかいにて、男に狎(な)れたる数を、足のくびに結ぶ事の侍るとかや」とあるように、かなり特殊な土俗を伝えていたのである。
大原の雑魚寝がどのように行なわれていたかは、井原西鶴の『好色一代男・二巻・一夜の枕物ぐるい』に詳記してある。長文なので要点だけを摘録する。

 友とする人に囁きて誠に今宵は、大原の里の雑魚寝とて、庄屋の内儀娘、又下女下人に限らず、老若の分かちもなく、神前の拝殿に、所ならいとて、猥りがましく、打臥して一夜は、何事も許すとかや、いざ是よりと、朧なる清水、岩の陰道、小松をわけて、其里に行って、牛つかむ計りの、闇がりまぎれに聞けば、まだいわけなき姿にて、逃げまわるもあり、手を捕えられて断りをいう女もあり、わざとたわれ懸るもあり、しみじみと語る風情、ひとりを二人して、論ずる有様もなお笑(おか)し、七十に及ぶ婆々をおどろかせ、或いは姨(おば)を乗り越え、主の女房をいやがらせ、後にはわけもなく、入組、泣くやら笑うやら、悦ぶやら、聞き伝えしより、おもしろき事にぞ、暁近く一度に帰るけしき様々なり云々。
もちろん、多少の誇張は免れぬとしても、その実際が乱倫を極めていたのは事実であろう。
出羽の国の山寺
 毎年七夕の夜に麓の町村の男女が登山し、民家に宿り枕席を共にする。またこの奥の最上川の辺りにめたくた村というのがあり、常に男女が往来寄宿する。めたくたとは滅多苦多という意味である。さらに、寛政の頃に書かれた書物に、山寺に近いさばね峠も古くはざこね峠と称していたとある。
越後の国大面の鹿嶋神社
 恒祭日には近郷の若い男女が社殿に集まり、夜になると雑魚寝をした。享保まで常陸帯の神事もあったと伝えられている。
能登の国寺家の三崎権現社
毎年八月十五日の祭礼の夜には、雑魚寝と言って、近村は言うに及ばず、遠く数十里から男女が集まり通夜してにぎわった。汽車も汽船もない時代に数十里の旅をするとは誇張しているように聞こえるが、神に対する敬虔な態度と、性に惹かれる本能の執着とは、当時の人たちをそうさせずにはおかなかったのであろう。
下野の国太平山神社の八朔祭
 八月四日の夜は「お籠り」と称して参詣の男女が雑魚寝をなし風俗を乱すので、警察では取締りを厳しくしている。
信州諏訪郡の八幡社
 毎月十四日の祭礼の夜に青年男女が「お籠り」と称して近郷近在から集まり、社殿に泊り込んで良縁を祈る。
大和の十津川
 村内の妻子奴僕とも自他を選ばず、或は旅人にいたるまで、行きがかりに男女が寝所を同じくして交合する。元来、人目を守る関もなく、これがために嫉妬の心もなく、古くから色欲のために身命を失う者なしと言われている。
『是等の乏しき資料から見るも、雑魚寝なるものが概して神社中心に行われたところより推して、その起源が共同婚による神判成婚の派生であることが首肯されるのである。』

古文は風情がありますね 現代の視点から見ると単なる乱れた性のように思えますが、ここまで乱れられる(?)のも、男女の引力の強さやお互いの性に対する肯定視があったからなんだと思います。何より、みんな性が大好き なところが、現代とまったく違います。そしてここまで性がオープンであれば、最後の十津川の事例にあるように、嫉妬心すら生じなかったのも当然ですね
では、次の事例をご紹介します

★結婚の準備行為としての雑魚寝
 我国の古代では、一時的にせよ性の結合があれば、それが直ちに婚姻であったことは既述した。反言すれば古代には婚姻以外の性の結合というのは許されなかったのであり、この立場から見れば、雑魚寝は単なる性の結合ではなく、一時的にせよ婚姻の行為と見るべきであって、結婚の準備としての雑魚寝なるものは行われない筈である。しかし、世が移り時を異にすれば雑魚寝の内容にも変遷があるのは当然である。
神戸市湊部
 雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。同村の未婚の男女が毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしまったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。
筆者も明治四十三年頃に駒ヶ林のこの堂を訪ねたが、その頃は土地の者は「枕寺」と呼んでいた。堂には雑魚寝に用いた枕というのが七八十も積んであったので、枕寺の由縁も、在りし昔の雑魚寝の盛んであったことも偲ばれた。
琉球の各地
 雑魚寝のことをヤガマと言っていて、語源的に解釈は小屋の意味で、古くから各村にあったが、度々禁止されたので、明治になってからは寡婦の家や民家の離れ家などを借りた。ヤガマの目的は最初は共同宿泊だったが、若い男女が集まることで盛んに雑魚寝が行われ、全く共同婚と撰ぶことのないくらい堕落してしまった。その後に儒教が渡来し、ヤガマは未婚者の自由結婚所と化し雑魚寝は変じて男女一対ずつの抱擁場となり、さらに時勢の影響をうけて相手のない若者達の合宿所となったのである。こうなるとヤガマは求婚所となり、一人を破談して他を求める場合の配偶者交換所にもなる。この時代には琉球においても一回の性の結合が、直ちに夫婦関係になることは勿論であった。
現今でも京阪の花柳界に行われているジャコネと称する方法は、ここに挙げた雑魚寝とは全く趣を異にしているが、その名の示すように、微弱ながらも在りし昔を偲ぶことができる。
(引用者注:ジャコネ=昭和初年ごろまで残っていた風習。深夜まで遊んだ客が、屋形へ帰りそびれた芸者たちと一つ座敷に枕をならべて寝ること。みんな普通に眠るだけだが、なかには一夜限りの関係を持つ者もいたが、水に流してあとを引かないのが不文律になっていた。)

 雑魚寝は、前回ご紹介した性的神事のように、年に一度の村落共同体みんなのお楽しみ=祭りの一つ。何十里も遠くから人が集まってくるくらい、性には引力があったんですね それにしても昔は神様と性は、切っても切り離せない密接な関係があったんですね~。
次回も、引き続き雑魚寝について書きたいと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございます

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