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2011年03月11日

日本人の起源を探る 3~スンダランド海洋航海民の誕生

南方ルートについて、さらに突っ込んで追究してみます。
まずは応援よろしくお願いします。

画像はこちらからお借りしました。
seasia.gif

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ありがとうございます。
では、るいネットスンダランド海洋航海民の誕生から引用しながら進めて行きます。

■約5万年前頃スンダランドの海岸地域に、海洋適応戦略を成功させた新人段階の旧石器人が定着していました.かれらは東南アジア内陸部の熱帯雨林に展開した「礫器文化」に対峙するように、海岸や島嶼部を拠点に「不定形剥片石器文化」とよばれる文化を発達させます.この文化は、磨製石斧片、チャート製の台形状石器、スクレイパーに特徴をもち、九州島から列島内部に展開される「ナイフ形石器」が伴出しない特徴を持つとされます.

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不定形剥片石器の例(徳之島天城遺跡出土)画像はこちらからお借りしました。

おそらく筏(竹か)などの渡航具を使用し、河川・海洋資源を主な生業とした漁撈・採集民であったと考えられています.彼らは、最寒冷期に向う気候変動の過程で生じたスンダランド地域の海進と海退の環境変動に促される形で、黒潮海域を活動の場として、外洋航行にも順応できる「海洋航海民」に成長していったと考えられています.

当時の渡航具には当然エンジンなどの動力はなく、
また帆など風力を活用する技があったかどうかもハッキリしません。
02e.jpg
こんな感じか?画像はここからお借りしました。
そんな彼らがどうやってはるばる北上できたのか?
それは黒潮の力に負うところが大きかったのだと考えられます。
黒潮圏の考古学さんから引用させていただきます。(画像とも)

日本列島に沿って流れる「黒潮」は、北赤道海流がフィリピンのルソン島東海域の海上で向きを北に変えるあたりで誕生する。黒潮は西太平洋を北上し、台湾島東側から東中国海に入り琉球列島の西側を通過する。この後支流は九州島西側を北上して対馬暖流となり、日本海海域に入っていく。本流はトカラ列島(トカラ海峡)を横切り四国、紀伊半島、東海地方の太平洋沿岸を流れ、伊豆諸島の御蔵島と八丈島の間を通過した後、房総半島犬吠崎沖で東に転じる。規模は幅50~100Km、深さ200~1,000m、毎秒2,500~6,500万t で、最大時速は7ノットにも達する激流である。
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海は「文化のハイウエ-」といわれるように、北上する黒潮の流れは海産生物や陸上植物を迅速に、また遠くに運搬し拡散させたばかりでなく、先史時代以来多くの南方的な要素を日本文化にもたらした。

黒潮の速度である7ノットは、約13km/hとなり、自転車くらいのスピードです。
スンダランド~沖縄間はザックリ2,000kmなので、ひたすら漂流したとすると1週間たらずで到達できることになります。
こうしてみると、実感がわきますね。
一方で、スンダランドから沖縄まで来たのはどういう理由だったのか?
海流まかせの危険な航行をすることになったのにも、何らかの訳=外圧があったのかもしれません。
このあたりはまた別の機会にでも追究したいところです。
では再び、るいネットスンダランド海洋航海民の誕生から引用します。

■新人最初の渡海による拡散
海を渡った旧石器人として世界最古のものは、約5万年前頃東南アジアのスンダランドからオセアニアのサフルランドヘ移住した旧石器人集団が知られています.かれらは目視できる島々を伝って渡海・移住し、新天地を第二の故郷としてメラネシアの島々に拡散・定住し、今日まで生活しています.(不定形剥片石器文化)

■黒潮の道にのって:約3万2千年前頃、東京・武蔵野台地の旧石器遺跡から、約180Km南の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使用した石器類が発見されています.本州島(伊豆半島)と神津島の間には海深200m、幅30Km以上の海が横たわっており、この島の黒曜石を入手するには渡航具(筏、丸木舟)を使用した海上航行が必要であったと考えられますが、この神津島の発見者は、黒潮海流を北上してきた新期(後期)旧石器時代人ではないか、という説があります.
かれらは琉球列島を経由して、種子島や四国・本州島の太平洋岸地域を遊動拡散してきた新人集団と考えられています.種子島の立切、横峯B遺跡(約3万年前)、東京の西之台B、中山谷遺跡(約3万5千年前)で出土した礫器、大型幅広剥片石器、錐状石器、クサビ形石器、磨石、敲石などの「重量石器」を特徴としている。同様な旧石器群は、ベトナム、香港、台湾島などにも分布が認められています.(南方型旧石器文化)

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画像はこちら からお借りしました。
この図のように、トカラ列島を境にして石器文化は南北に2分されています。
そうなるとややこしくなるのが、引用文中に出てきた神津島産の黒曜石を使用した武蔵野の石器。
出土してくるのはナイフ形であり、北側の石器分布に属します。
ところが、神津島から本土に黒曜石を運ぶためにはスンダランド発の海洋航海民の渡航技術を使わないと不可能。
しかし、スンダランド発の海洋航海民にはナイフ形石器は作れない。。。
ということは、、、、
神津島に漂着したスンダランド発の海洋航海民が黒曜石をまず本土に運び、本土にいた北方系の先住民がこの黒曜石を使ってナイフ形石器を作った、ということになるのかも知れません。
約3万2千年前に、スンダランド発の海洋航海民と北方発先住民の協働がすでに成し遂げられていた?
黒曜石は南方から北方へのポトラッチか?

などなど、追究の余地がいろいろありそうです 🙄

田野さんや小寺先生などの投稿にもあった「港川人」が発掘された沖縄では、琉球石灰岩地域が広がり、更新世(≒旧石器)化石人骨が8カ所から確認されています.港川人(約1万8千年前)だけでなく、沖縄本島の山下町第一洞人(約3万2千年前)、、宮古島のピンザアブ洞人(約2万6千年前)などが挙げられます.しかし残念なことに、沖縄の旧石器人骨発見地点からは、確かな「旧石器」の出土がありません.

石器の出土はないようですが、さきほどの分布図によると、沖縄はほぼ確実に南方型旧石器文化、不定形剥片石器文化の範囲内と言ってよいでしょう。
こうして見てゆくと、沖縄・徳之島あたりまでは確実に、可能性としては関東地方くらいまでスンダランド発の海洋航海民が北上していたのかも知れません。
黒潮に乗ってやってきたとすると、九州以北に到達していなかったとするほうが、むしろ不自然でしょう。
さらに、九州以北~本州に到達していたスンダランド発の海洋航海民は、本日の記事で見てきたようにこのときすでに北方モンドロイドと融和していた可能性も否定できません。
うーん、なかなか深いですね。
単純に南か北か、では決めきれないようです。
引き続き追究していきたいと思います。

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