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2011年04月10日

西洋中世社会の実像:中世は身構えた時代

■東日本大震災で英米のニュースサイトでは「日本ではなぜ略奪が起きないのか?驚きだ」という記事があったことが報道されていましたが、逆に日本人の我々からすると、何故こんなときに略奪が起きるの?というのが正直なところです。
このブログでもよく取り上げる西欧と東洋の比較では特に日本とは現代においても、これだけの意識感覚の違いがあるのです。
■西欧は、前12世紀頃、海の民による略奪の時代が300年~400年続き、海賊や山賊などが跋扈し、それまでの原始母系集団などが持っていた本源性は徹底的に破壊されました。まさに無秩序な世界でした。その後ギリシャやローマの強力な力により統合、秩序化されました。
ローマ崩壊後、西欧はどんな社会になっていったのでしょうか。
もともと力でしか統合できない社会ですから、力が働かなくなると領土はバラバラになり統合不全の社会になっていきます。
秩序は乱れ再び周囲は皆が敵という不信、不安の世界に戻ってしまいました。
それが従来から言われてきた『暗黒の中世』の実像ではないでしょうか。
その後、キリスト教の観念統合、契約による私権社会の国家秩序による国家統合、近代国家による力による支配などで、一定の秩序化が図られましたが、そのような支配や観念統合が綻ぶ毎に、周囲は皆が敵という不信、不安の世界が顔を出すのは、現代まで変わっていないのではないでしょうか。
今回紹介する 【阿部謹也:西洋中世の男と女 聖性の呪縛の下で、筑摩書房】で描かれているのはそんな西洋中世社会を描いた貴重な資料です。
というのも西洋人は自分達のつごうの悪い世界を歴史上抹殺してきた歴史があり、意外とこのような実像を描いたと思われる資料は少ないのです。
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【阿部謹也:西洋中世の男と女 聖性の呪縛の下で、筑摩書房】
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本で紹介されている12世紀のフランスの地方都市ランの殺害や略奪の事例はこの町だけの特別な事件ではなく、他の町でも一般に見られたと記述されている通り、古代から西欧人の意識に深く刻まれているのでしょう。
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画像は「日刊共鳴二千年史を考えるブログ」よりお借りしました。
■以下【阿部謹也:西洋中世の男と女 聖性の呪縛の下で、筑摩書房】からのフランスの地方都市ランの殺害や略奪の章の一部を要約しました。
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●防御を必要とする凶暴な社会背景
町や村を結ぶ商人が常に隊を組み武装していたように、流動する農民も独力で身を護る必要があったし、彼らが無害と判明するまでは、迎えるものも警戒を緩めることはできない。
治安の悪さは封建社会の構造そのものに根ざしているので、個々の人間のモラルだけの問題では決してないが、しかし習俗一般の粗暴さも一つの事実として否定できないところである。
北フランス、ランの町の定期市の描写を見よう。
「蛮族、あるいは掟を知らぬ民、スキタイのもとで生じたとしても、審議にそむくものとして裁かれるに違いないようなことが、ここでは慣例となっている。土曜日毎に、近在の村々百姓たちが集まってきて、売りかつ買う。町のものも野菜、小麦をはじめあらゆる物を鉢や皿、その他量目を計る器に入れて広場に並べたてる。そのような物を探す百姓を見つけて値段の折り合いが付くと、商人はいうのである。「俺の家まできて、今売った品物の残りを見てそれも持っていくがいい」。買手がその気になってついていくと、正直このうえない商人は大きな箱の蓋を持ち上げ、決まっていう。「さあ覗いた。覗いた。頭も肩も中にいれた。先刻広場の市で見せた見本とちっとも違わないことを、とっくり調べて頂戴」。買手の百姓が爪先たって覗き込み、腹あたりが箱の縁にかかると、後ろにたった立派な売り手は、足を上げてどんと蹴飛ばす。百姓の落ち込んだ、箱に蓋をして、今度は身代金の交渉にかかる。
このようなこと、あるいはこれに類することが、町の真ん中でおこなわれているのである。町の主だった者やその従者たちは、白昼公然と盗みはおろか、武器を振って強盗を働く。夜間の外出は、誰にとっても危険で身ぐるみ剥がれるか、捕らえられるか、さもなければ殺されてしまうことは確実である」。

●殺害
○或る僧が、自宅で暖炉の傍らに坐っていると、突然後ろから召使の少年に撲殺された。それも、日頃項目をかけて可愛がった少年であった。少年は主人の死骸を部屋に隠して鍵を掛け、隣人が僧の姿を見ぬのを怪しむと、所用で外出中と答えた。異様な臭気が立ち込めて隠し切れなくなると、炉の灰のなかに死骸の頭部を突っ込んで火格子をのせ、主人の持ち物かき集めて逐電した」。火格子が倒れて事故死したように見せかける魂胆であった。
○「聖堂参事会の役僧は農村の僧達を集め、、訴えを聞いて審理するのが常であったが、その際ひどくおしゃべりで分別のないブルゴーニュ出身の僧が仔細なことで臨席の僧の非を言い立てた。役僧は被告に小銭6枚の罰金を課した。金を失った層はひどくこれを根にもち、罰金を払ったその夜、待ち伏せをした。ブルゴーニュ人が提灯を下げて帰ってき、自宅の石段に足をかけた途端、後頭部を棍棒で殴る付け、ためにその男はおのれの霊魂のための慈善をおこなういとまもなく死んだのである。
○「或るとき、互いに憎みあう二人の僧がいた。そのうちの一人が教会の祭壇でミサをあげているとき、もう一人が手下に命じて矢でこれを狙わせた。その僧は矢傷で死にはしなかったものの、犯人は明らかに殺害の意図を持っていたから、殺人のかどで決して無罪とは言えぬであろう。実にキリスト教徒の間で前代未聞のことである。同じ頃、同じ地方で行われた類似の悪行はおびただしく伝えられている」。
瑣末で、しかも手荒い凶行であるが、心理傾向ないし行動様式の点から見て、いずれも衝撃的、短絡的なのが特徴である。キベールは「フランス全土を通してランの民ばかり邪まなるはない」と、これがラン特有の人気の悪さであるかのように歎いているが、果たしてそうであろうか。実は、この種の例証は枚挙に遑がない。
「日がな夜がな、聖ペーテル寺の領民どもは、野獣同然、殺し合いを続けている。ある者は乱酔の挙句に、ある者は腕自慢から、あるものは全く何の理由もなしに突然立ち上がって襲い掛かる。この1年の間に、聖ペーテル寺の何の罪とがもない領民35名が、寺領内の別の領民によって殺害された。しかも人殺しどもは後悔するどころか、己の犯罪を吹聴して廻る始末である」。
これら暴力が異常ではなくむしろ日常化していたのは、他の都市でも程度の差はあるがみられたようだ。

●聖堂の謀殺事件
コミューヌのような事件となれば、暴力は一挙に噴出し、渦巻き、全てを押し流すほどの勢いを示す。
○ランの場合、コミューヌ事件のきっかけとなったのは歴代司教の利権あさりと市内外の有力者の諸党派の確執の果ての謀殺事件であった。
すなわち、尼院の近隣に声望のあったジェラールという守護が大聖堂のなかで惨殺されたのである。
確執の発端はジェラールの愛人であったシビルという女が他の一派の人間の妻になったことだが、暗殺を仕組んだのが司教であった。
その司教は殺人当日旅行にでる周到さであったが、軍隊を集め、殺人者や破門者を従えて高圧的態度で帰還するが、国王奉行の圧力が交差し、市内の空気が俄かに険悪となる。
「激怒と恐怖が市民を捉え、職人は仕事を棄て、革なめし工や鞄職人の露天は畳まれ、居酒屋や行商人も商品を隠した」。
貴族たちが略奪するという噂がながれたからである。日曜日市中を行列するにあたって、司教は一行に短剣を隠し持たせ、また所領の農民を呼び寄せて教会の搭や居館を警備させた。農夫たちは司教をひどく憎んでいたが、銭の配分があることをわきまえていた。
○いざ、略奪に
次の木曜日暴動が表面化した。謀反人たちは長剣、両刃の剣、弓、斧、棍棒、槍などあらゆる武器を掴んで、大聖堂内陣を走り抜けると司教館へ殺到する。
追い詰められた司教は倉庫に逃げ込み、在り合わせた樽のなかに身を隠した。ティエゴーという元橋守りでしばしば通行人を殺害して財貨を奪ってきた凶悪無残な男が司教が逃げ隠れた樽を見つけ、樽の天辺を打ち壊し、司教を引きずり出し、滅多打ちに打ち据え、司教の頭蓋から脳漿をたたきだし、今一太刀、眼窩の下から鼻梁の真ん中に掛けて斬り付けられて絶息した。
死骸の手足は切り離され、胴体も切りつけられた。ティエゴーは指輪を見つけると、抜き取るのももどかしいと指を切り取って、懐に収めた。死骸は素裸に引き裂かれて、小路の隅に打ち棄てられた。おお主よ、通り過ぎる者たちが死骸に向かって放った罵りの言葉、投げつけた泥、石、汚物のたぐいを、誰が再び繰返せるであろうか。
司教殺害の後、虐殺、報復、略奪、放火が荒れ狂う。本寺聖堂もこの時、炎上した。虐殺と報復が市内全体にひろがり、市外に逃亡する者が続出した。
町が空になりかけているとの噂が天馬の早さで拡がり、近隣の村人、町人、を興奮させた。農民たちは誰彼を問わず、打ち棄てられたこの町に殺到し、守り手もなく財貨の残されている町屋を襲った。
運び去る手段のない穀物や酒のたぐいも、ただ奪わんが為に奪われて撒き散らされた。その次は略奪者間の喧嘩である。
「獲物は、弱い者の手から、強いものの手に渡った。二人組みの男が一人の男に出会えば、確実にこれを襲撃した。」
しかし略奪にかけては貴族にかなうものはない。貴族が乗り込んで、徹底的な略奪ち殺害を繰返した。
ある者はこの時、馬の尾に足を結んで引き摺られ、脳漿の飛び散った体を絞首刑台にかけられた。
こうして馬を奪われたり、現に着ている衣服を剥がされたちすることなく、安全に町に出入りできた者は修道僧一人といえども存在しなかった。

●西欧中世は「身構えた社会」である
今見たランの場合でも暴動の形態そのものより、折あらば一挙に暴力となって噴出しようという姿勢が町の中にも町の外にも常にあったことに注目したい。中世で戦ったのはあるいは戦わざるをえなかったのは、騎士だけではない。機に臨んでは商人も農民も、長剣や長槍という「高貴な武器」を手にすることこそ稀であったものの、斧、棍棒、短剣、そしてなにより大小の飛び道具を使って戦闘に参加していた。貴重な荷を駄馬につけて遠く、旅する商人が武装し、その荒々しい気性が殆ど戦士それに変わらなかったことはいうまでもない。職人に到っては、彼らの組織する同胞団や仲間がそのまま軍事力の単位であって、都市の防衛体系に組み込まれている例は少ない。
さきに一つの都市が外界に対して厳重に身構えるだけでなく、内部に錯綜する敵対関係を含み、内部防備の密林を現出している例を見た。言わば、あらゆる次元の共同体が程度の差こそあれ、防備に何らかの意を配りながら、積層していて、最底辺では個人が剣を帯びている。少なくとも、有り合わせの得物を握って戦う気構えをしている。
だからこそ、お互いの暴力の局部的な止揚にも「神の平和」とかコミューヌによる都市自治権奪取の裏面ないし基礎である「平和」の誓いとか、特別の誓訳を交わして団結するより他はなかったのである。その本質は「平和」という言葉から連想される武器の放棄などからはおよそ縁遠かったので、内部の平和を保持する為には外に向かって武力を貫く一層の覚悟が必要であった。ランの場合もそうであったが「コミューヌ!」はしばしば都市の蜂起の合言葉で、修羅場の雄叫び、乱戦のさなかで味方同士励ましあう掛け声であった。
社会にあるいは諸種の共同体の中に、敵対拮抗が内包されているのは現代とて同様である。
ただ中世と違って、直ちにそれが襲撃や戦闘の形で展開することはない。暴力や戦闘は現代、あくまで特別の事件であって、日常のことではない。これに対して中世では、平和団体の結成であれ、あるいは執拗に繰返され、そして大半は徒労に終わった国王の平和勅令であれ、平和は特別なこと、非常なことであった。社会のあらゆる次元で、暴力は常に露出している。封建社会が軍事社会であることは言い古された指摘だが、軍事的に編成されていたのは単に支配階級だけではない。
社会全体がそうなので、すべての何らかの攻撃に対して常に身構え
ていた。中世とは、ある意味で身構えた社会であると言えるだろう。

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