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2013年01月12日

「共同体社会における生産と婚姻」その①~百姓の変遷

今回から新シリーズ「共同体社会における生産と婚姻」について、具体的な追求に入っていきたいと思います。
まずはその共同体についてですが、かつての共同体=村落共同体における主役を担っていたのは紛れも無くお百姓さんたちでした。 😀
しかし一口に“百姓”といっても、実はその定義は時代によって結構変わっていたようです。 またその職業も現代のように農業従事者のことのみを百姓と呼んだわけではなく、彼らは実に多様な職業についていたようです。
「共同体社会における生産と婚姻」の第一回目は、共同体社会をささえてきたお百姓さんの変遷を辿ってみたいと思います。

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画像はこちらからお借りしました。
まずはこちらの投稿から、各時代の百姓の位置づけの変遷の概要を見てみます。

百姓の変遷
●律令国家<「姓」を持つ者(=戸籍登録者)全てが百姓>古代律令国家においては戸籍に登録された全公民が国家に直接把握の対象となりそれがすなわち百姓であった。それは貴族も含まれていた。
●前期王朝国家<年貢負担者としての百姓>王朝国家においては戸籍に登録された公民単位に徴税を行うのではなく、筆頭国司たる受領が富豪層を把握して彼らから徴税を行うようになった。こうして形成された田堵負名層(タトフミョウソウ=納税義務を負っているもの)がこの時代以降の百姓身分を形成した。
●後期王朝国家臨時課税を目的に非公認の荘園への課税を可能にするため、荘園として公認化。
百姓、すなわち田堵負名層は公領に属する者と荘園に属する者に分かれる。
●中世<年貢負担と集団統合役としての百姓=百姓による自治>鎌倉幕府時代以降。荘園と公領は前代に引き続き名田に分割編成され、百姓はこの名田の名主に補任(ぶにん)されて年貢(ねんぐ)、公事(くじ)、夫役(ぶやく)の納入責任を負った。名主百姓はさらに小百姓、小作人、間人(もうと)といった領内下層民に対する支配権である名主職を有し、これを世襲した。
●近世<百姓身分の細分化>江戸時代には、(1)田畑と(2)家屋敷地を所持し(検地帳名請人)、(3)年貢と(4)諸役の両方を負担する者を百姓(本百姓・役家)とした(「初期本百姓」)。なお、百姓は戦時においては小荷駄などを運搬する(5)陣夫役を負担する者とされた。
江戸時代中後期の社会変動によって、百姓内部での貧富の差が拡大していくようになる(「農民層分解」)。
高持から転落した百姓は水呑百姓や借家などと呼ぶようになった。
その一方で富を蓄積した百姓は、村方地主から豪農に成長していった。また、村役人を勤める百姓を大前百姓、そのような役職に就かない百姓を小前百姓と呼ぶようになった。
●多様な生業実際の村落には多様な生業を持つ者が住んでいた。百姓=農民というイメージは江戸時代から続く古い俗説であるが、実際には現代の「兼業農家」よりも広い生業を含んでいる。
・諸職人・宗教者・雑芸民・医者・商人・漁民
以上のように、村落にはさまざまな生業で生計を立てている者たちが存在していた。彼らがどの身分集団に属するのかは、身分集団を編成する本所の動向、身分集団自体の成熟度に左右されることがわかる。その生業の種類とともに、時期と地域による差も大きかったのである。

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この様に百姓の位置づけは時代とともに移り変わり、またその職業もかなり広かったことが分かります。
しかし、各時代を通じて一貫する軸は、常に「生産者」であり納税義務を負っていたこと。そして、その為には様々な能力を必要とし、従ってその職種を意味する「姓」がたくさんあることから、「百姓」と呼ばれてきたようです。
では、もう少しその本質を見ていきたいと思います。
以下は「農業・百姓を通して見た現代人-①」からの引用です

百姓とは、皆から尊敬される存在であった
祖父や私達にとっては尊敬語である。よってこれを使うし、「「百姓」こそ理想的人間像であり、目指すべき生き方のお手本だ。」と祖父はよく説いていた。

~では、なぜ百姓は皆から尊敬される存在だったのでしょうか。

○集団が生きる為の生産の担い手であることこそ百姓への最大期待だった
サービス産業のような虚業が評価され、生産業のような実業が軽んじられるのを情報化時代といい、土から遠ざかる事、脱農を近代化というのなら、共に人間にとって不幸な時代というしかない。

~百姓はいつの時代も集団が生きる為に必要な生産を担ってきた。集団の為の生産⇒国家の為の生産⇒だから納税を担う対象でもあった。

○百姓は生産に従事するだけではなく、自ら集団の統合も担ってきた。
現在のように、全てを行政に世話される時代と違って「百姓」はコミュニティリーダーでもあったし、ボランティア活動に参加する事は当然であった。つまり、自らの能力を社会に対しお互いに発揮することで自他を認め合い、より良い社会を形成していこうとした

~百姓は単なる生産従事者ではなく、税の徴収者=支配者との折衝なども含んだ集団の統合課題も担っていた。それは集団内部からの期待でもあり、支配層からの期待でもあった。そして、百姓自身は確かに広い能力と社会性を有し、集団を取りまとめていった。

○百姓とは、広い分野の能力を必要とする。
或る農学者が、「「百姓」とは「百」は「たくさん」、「姓」は「かばね」これは古代の苗字に当るもので、苗字は昔、職業を表した。要するに姓は「能力」を意味する。従ってたくさんの能力が無いとできない仕事が「百姓」という事だ。」と説いている。

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画像はこちらよりお借りしました。
以上の様に各時代を通じて、百姓は集団の生産を担い、集団の統合を担い、一貫して集団期待に応える存在だったといえるのではないでしょうか。
そしてその生産の中身は、集団が生きる為に必要不可欠なものであり、集団の統合とは、上からの支配ではなく、互いを認め合い、皆が充足する為のものであったのでしょう。
次回は、百姓による集団統合、村落共同体における自治とは具体的にどの様なものだったのかを見ていきたいと思います。

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