2014年10月02日
女主導の原理と現代への適用(番外編)~商家経営における女主人と女中の役割①~
老舗大国ニッポンの、陰の立役者である女たち。
その女たちの働きぶりがよく分かる、ある研究レポートを発見しました
少し長くなりますが、商家の女主人と女中の役割を中心に、リアルな様子も出来るだけ交えながら、2回に分けてご紹介します
荒木康代さん『商家経営における主婦(女主人)と女中の関係についての考察―1927年の商家の妻の日記から―』より抜粋です
(画像は本文とは直接関係ありません。画像はこちらからお借りしました。)
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◆はじめに
本報告では、昭和2年の大阪船場の商家の妻の日記から、商家経営における女主人と女中の関係について取り上げる。
商家の主婦(女主人)と女中との関係については、中野卓が、商家の主婦の役割は、「女中を指揮して店員の衣食給与に当ることを重要な任務としているだけでなく、店員に対する人事管理の一半は主婦によって行われていた」として、女中の「指揮」を「重要な任務」としてあげた。商家の主婦の女中に対する「指揮」や「親密感ある交際」の具体的なあり様については、その資料的な制約もあってこれまでほとんど研究されてこなかった。
本報告では、商家の主婦の役割と女中との人間関係の分析を通じて、主婦の女中に対する役割とともに、両者の「親密感ある交際」がどのように醸成されていったのかという点についても考察する。
◆杉村久子と杉村家について
日記の著者、杉村久子は、1883(明治16)年に、五代友厚・豊子の三女として大阪中ノ島(現大阪市北区)で生まれ、17歳で大阪船場(現大阪市中央区)にある杉村商店の後継者である杉村正太郎と結婚した。
本報告で取り上げる日記が書かれた1927年当時の杉村商店は、東区船越町に「杉村本店」があり、「林業部」と「土地部」があった。
従業員は7名いたが、日常の経営は番頭に任せられていた。927年1月の杉村家には、住込みの若年の女中が3名と通勤の中年の女中2名がいた。また、船越町の店にも1名の女中がいた。
さて、いよいよ本題です
まずは、若年女中との関係や、当時の女中事情などから、女主人の役割を見てみましょう
◆女主人と若年女中の関係
927年1月の杉村家には、松、竹、菊の3人の女中がいたが、この3人の女中に加え、新しく女中の梅を採用している。
久子は梅を雇用するにあたって、1月17日に面接を行っている。この後、27日に梅は初出勤となっているが、久子は梅の父親に面会して、「本人のクセをきき色々参考の事なと話し」ている。
両日とも本人および父親と面会しているのは久子一人であり、女中の雇用に関しては久子が独断で決定していたことがわかる。女中の15円という給与は店員の30円、女工の23円に比べると低いが、女中の場合は食費が別途支給されており、一概には低いとも言えない。
さらに杉村家では、女中に対して仕着せ及び賞与として、6月には帯とゆかた、12月には反物や帯などが支給されていた。12月6日に支給された反物等の金額は、ほぼ1か月分の給与と同等の額である。
この他に、1月に松は眼病のため7日間眼科に通院しており、梅は5月に皮膚科に通院しているが、この医療費と通院の電車賃も杉村家の負担である。
また、帰郷の際の土産や家族の病気の見舞、折にふれての贈与など女中にかかる費用は決して少なくなかったと考えられる。
数年勤めた後、結婚に至る事例も少なくなかったが、久子は「祝と慰労の品物」として羽織紋付を渡している。女中の嫁入り道具を揃えることが、久子にとっての楽しみでもあったことが窺える。1934年の大阪市の調査によると、女中の平均勤続年数は2年であり、一般に女中の勤続期間は短かった。
杉村家でも、菊に引き続き、竹が退職することになった。竹の父親と女中の松の話によると、「下働きのみにてつまらぬ」こと、また「梅との折合ひ」が悪いことなどが理由であった。
このことに対して久子は十分監督できていなかったことを悔やんでおり、女中同士の関係の調整なども女主人にとって重要な役割であったことが推察される。
久子は、午後2人を交代で休ませたり、「芝居」を見に行かせるなど気をつかっており、女中の処遇に対する様々な配慮が見られるが、それでも女中の退職を防ぐことはできなかった。もっとも、女中の退職によって女中と杉村家の関係が絶たれてしまうわけではなかった。
なるほどーーー
女主人は、採用から人材育成、その他もろもろの面倒を見ていたんですね
企業に置き換えて言えば、まさに人事と総務と経理を一手に引き受けていたというところでしょうか
しかも、父親にまでヒアリングに行くところといい、里帰りの手土産まで用意してあげるところといい、現代のどこの企業よりも手厚く親身ですね
◆退職後の女中と久子の関係
5月に暇をとった竹はその後も完全に退職したわけではなく、梅や松が「やぶ入り」で手薄のときや年末年始の忙しい時期には手伝いに来ていた。
このように女中が退職後も手伝いに来ることがあった一方で、結婚などでやめた女中が久子を訪問することも少なくなかった。
たとえば、7月3日に元女中のA が14歳の義妹を連れて「入嫁後始めて挨拶」に来ている。久子は、「妹も上らせ二人一緒に話し、蓄音機きかせて中(ママ)食させ」た後、土産を持たせて帰らせている。
また、訪問してきた元女中のBに対しても、「有合せにて食事させて後居間にてあひ」「入嫁先の事」を「色々尋ね」、土産として本人にはゆかたを、気難しいと聞いた義父のためには素めんを渡している。AやBのような訪問の他にも元女中がやって来る理由はあった。
Cのように親戚の持つ道具の鑑定という実利的な目的のために訪れる場合もあれば、Dのように仕立屋として久子から仕立物を請け負うという関係への移行もあった。このような詳細な記述からは、 久子との関係が単なる労働契約としての雇用関係にとどまっていないことを示している。
なんとーー
辞めた後にも、ここまで面倒を見てあげているなんて、予想以上です
先ほど、女主人は人事であり総務であり経理であったと言いましたが、ここまでくるともはや、顧問であり相談役であり母ですね
線引きなしに、どこまででも力になってあげる。
そしてそのことに、本分や喜びを感じる。
その慈愛に満ちた応望性や充足性こそが女の特性であり、だからこそ女主導で集団やみんなを育んでこれたんですね
次回は引き続き、そんな女主人を周りで支えていた女たちについて紹介したいと思います。
お楽しみに
- posted by KIDA-G at : 2014年10月02日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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