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2014年12月30日

【年末特集】女性の活躍とは何か(前編)~現代の女性論を振り返って~

師走の候。m009.gif

今年も残すところあとわずかとなりました。みなさん、どんな一年だったでしょうか。m027.gif

17年ぶりの消費税UP(今年の漢字には「税」が選ばれました。)や、STAP細胞騒動集団的自衛権行使容認、などがすぐに思い出されますが、記憶に新しいのはやはり、12月に行われた衆議院選挙でしょうか。

 「アベノミクス解散」と名付けられてはじまった今回の総選挙でしたが、結果は自民党の圧勝でした。しかし、今回の選挙が戦後最低の投票率だったことを考えれば、民意が安倍政権を「選ばなかった」と捉える方が正しいと思います。

アベノミクスでは、成長戦略の中核として「女性の活躍」を掲げていますが、これは、少子高齢化による労働力不足を、女性の力を活用することで解決しようとしているだけです。それを「女性が輝く」という言葉で美化し、家事と仕事の両立を強いているに過ぎないのです。

事実として、女性の就業者数は増えていますが、その内訳は女性の非正規雇用者が増えているだけであり、実態としては、女性が時間を切り売りしながら、何とか家事と仕事を両立しているだけだというのが分かります。これでは、「女性の活躍」とはとても言えません。

では、女性の活躍とは何を指すのでしょうか。そのヒントは、近代以降の資本主義社会を見直し、村落共同体がまだ残っていた時代の女性の役割を紐解くことで見えてきそうです。

そこで、本日は、菅野覚明さんが著した、『女の心得~社会に出る前に知っておくべきこと~』を参考に、これまでの女性論のおかしさと、これからの女性の活躍について書いてみたいと思います。

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この本を読んでまず感じたのは、現代の女性論が如何に的をはずしているか、ということです。「ワークライフバランス」、「女性の自立」など、言葉だけ聞いていると、大事に思えてきますが、その前提となっているものを考えると、これらの言葉が逆に女性を苦しめていることに気付きます。それではひとつずつ見ていきましょう。

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 ■「ワークライフバランス」という言葉のおかしさ

厚生労働省あたりがしきりにワークバランスというようなことを言っていますが、一体いつから、人間にはワークライフという二つの異なる、すべきことが生まれたのでしょうか。そもそも人間には、「生きる」ということ以外にすることなんてないはずです。働くことも、遊ぶことも、育児も食べることも寝ることも、全部「生きる」ことの中に含まれる一部分なのです。本来、「生きる」ことの一部分にすぎない「ワーク」が、近代以降、仕事と家庭が分裂したことによって、ライフと肩を並べるくらい偉そうなものになって独立していることが、今日の女性の大変さの原因なのかもしれません。

 

■「自立」という女性の思い込み

 「女性であっても自立すべきである」とは昔からよく言われてきました。

自立というのは、確かに人間にとって大切な理想です。生きる喜びや誇りは、自立しているという意識と切り離せないものでしょう。しかし、彼女たちの「自立」には、ちょっと気づきにくい、ある種の思い込みが隠れているように思います。それは、自立の単位は徹頭徹尾「個人」でなければならないという思い込みです。

しかし、経済を含めて自立した生活はそもそも個人単位では不可能です。人類ははじまって以来、自立した生活の単位は複数の人の共同体、具体的には「家」でした。人間はバラバラの1人では生きていけないというのは当たり前のことなのです。「自立した生活単位は個人」という考え方は、お金を稼ぐことが生きることと対置された近代産業社会のあり方と深く関わっています。

 

■近代の女性論の本質

近代の女性論では、「女性の社会進出」という言葉が良く出てきますが、この言葉は少し変ではないでしょうか。考えてみれば、これまでだって女性は「社会」の中で生きてきたわけです。それなのになぜ、あらためて「社会進出」という言葉が使われるのでしょうか。

産業革命の初期には、身分社会を壊し、「職業の自由」を謳って新しい産業を興し、男も女も子ども雇って労働力としていました。しかし、そうして働かせているうちに、効率や生産性を求めるには、子供や女性は労働力として不向きであることが分かってきました。子供は体力がなく、すぐ病気になる。女性は結婚や妊娠・出産などの事情が発生して、安定的な労働力とは言えない。そのため、徐々に近代社会における「労働」から排除されていくことになったのです。

あてにならない女性は低賃金で雇い、不景気になったときには真っ先に切る。そうしていくうちに、男女の労働区分ができてくる。男は外、女は内。(男は職場、女は家庭という「区別」がここで生まれる。)

女性が家庭で行なっている育児、家事、介護などの役割は、非常に重要であるにも関わらず、産業の側から見れば無償労働であり、評価されてきませんでした。このことが、男性の優越意識を生み、近年、「女性の社会進出」が叫ばれるようになった理由なのです。

 資本主義の産業社会において、「お金を稼ぐ世の中だけが社会である」という、一面的な見方によって語られているのが近代の女性論なのです。

 

■女性が本来持っていた能力

職業を持って賃金をもらうことにおいて女性が不利だ、という議論には大切な視点が抜けています。それは、女性ならではの能力、働き、美徳に対する理解です。

男女は基本的に同じもの、という考え方が前提にあるため、男女の違いは妊娠・出産するかどうかだけであり、あとは能力も感性も役割も同等であるから、そのハンデは社会がカバーすればよいという議論になるのです。

男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法などの政策は、まさに、男向きの社会で女性にも同等に参加できる社会をつくろうという動きそのものだと言えます。

近代社会は、「誰もが何にでもなることができる社会」、つまり全員平等、全員参加の社会です。しかし、それ以前の社会が唾棄すべき、まったく不幸な社会だったかというと決してそんなことはありませんでした。

それぞれの役割分担が決まった社会といいますが、それは、家庭の中で、あるいは共同体の中で、男性と女性の役割は相互補完的、調和的なものでした。長い伝統の中で細やかに発見されてきた、女性ならではの能力や働き、マニュアルにならないところで女性が身につけてきた力に則った役割分担がなされていました。

 

■新しい労働は大抵男向きに出来ている

女性が日々の暮らしの中でいかなる存在だったのかということを、柳田国男は『妹の力』で、過去の精神文化のあらゆる場面にわたって、日本の女性は実によく働いている、と書いています。そして、「明治以降の近代化によって、それまで女性が果たしてきた役割そのものが消えていった。それが大きな問題である」とも書いています。。

女性の役割が消えていくとは、どういうことでしょうか。 柳田国男は、おいしいお漬物が「平凡きはまる食料品店の商品」に変わる例を挙げています。漬物は、大昔から女性が各々の家庭で、各々の家庭の味をしっかりと守って大事につくってきたものでした。しかし、近代化によって、やがてそれが工場でつくられて商品化されるようになります。

機械で大量につくるようになって、その味も女性が個性的な役割を発揮して家々でつくっていったものが、画一的な、どこで食べても同じグルタミン酸の味がするものになってしまいます。

つまり、それまで女性が家庭や共同体の中でやっていた仕事がどんどん産業の中に取り込まれていく。そうやって、女性の役割が消えていっているのです。

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ここまできて、現代の女性論が、本来女性が持ち合わせている能力と整合せず、如何に的をはずしたものとなっているかが分かってきました。その理由は、一言で言えば、近代以降の資本主義社会を前提に考えているからだと言えます。

資本主義社会を前提にすると、女性が本来持っていた能力が生かされず、そればかりか、役割さえも奪ってしまうのです。

それでは、まだ共同体が残っていた時代の女性の役割とはどんなものだったのでしょうか。つづきは大晦日の夜に。。。。

 

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