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2017年05月12日

「聖職」とは国家がつくりあげた絶対者としての教員像

前回記事では教員の労働実態から、疲弊している教育現場の二ユースを紹介したが、
今回、あらためて「教員はどのようにして作られてきたのか」について調べてみた。
かつては「聖職」と呼ばれた先生が、どのようにして現在のような教員になったのだろうか。

現在日本の初等・中等教育レベルの学校 で働く教員の数は、
幼稚園:約11万人、小学校42万人、中学校25万人、後期中等教育24万人、合計約102万人に達する。
その数は、例えば、医師数16万7千人、薬剤師25万人、警察官28万8千人、自衛官24万人、看護師95万人などを上回っており、単一の専門的職業集団としては、日本でも最大規模のものとなっている。

教員数が100万人を超えているとは驚いた。
 単に教科書に書いていることを教えるだけならAIで十分可能、大量の教員は不要である。
 100万人もの人材が何を担い、どのように活かしていくのか、AI時代の大きな課題だ。

 

◆江戸時代の伝統的教師像
・幕府や多くの藩は、武士階級の子弟を対象に、主として中国の古典(儒教)を教育するための専門的な教育機関(昌平坂学問所、藩校)を設立していた。漢学、国学、そして幕末期には蘭学や洋学を教える民間のアカデミー(私塾)が各地に数を増やしていた。
・私塾は、身分・階級を問わずすべての者に対して開かれ、有名塾は全国から門人を集めた。また庶民に読み書きと実用的な生活技能を教える教育機関(寺子屋)が都市部だけでなく農村部においてもかなり広く普及を見せていた。
・藩校では武士階層の学者が教師をつとめた。
・民間の私塾や寺子屋では、武士(中・下層、浪人)、僧侶、神官、医師、学識ある富農などが教育にあたった。
・寺子屋、特に江戸や大阪のような都市部の寺子屋では、平民師匠の比率も高く、また女師匠もめずらしいものではなかった。

私塾や寺子屋は、民衆の間から生活の必要に応じて自然発生したもので、公的に設置され民衆に押しつけられた機関ではない。強いられた機関でないから、人格実力に根ざす威信をもたない個人が師匠たることは、あり得なかった。お師匠さんは、神官僧侶医師庄屋など尊敬される職業を本務としたから、師匠職を必ずしも金銭的報酬の尺度で考えなかった。彼らは多く土着の人であった。土地の人たちとの関係は、打算的でなく、義理人情的であり、一次集団的親密さをもっていた」

教員は、かつては「師匠」と呼ばれていたようだ。
 共同体規範がしっかり機能していた地域集団において、師匠と呼ばれる存在だけが人に教えることが出来たのだろう。
「聖職」と言われていた原点がここにあるのかと思ったが、なんだか違うような気がしてきた。

 

◆近代学校の下での教職の出現
明治維新の後、近代国家の建設をめざして国の主導による公教育として学校教育が開始される。
すなわち、国家的要請によって学校の在り方が決定され、その基準から教員としての必要な資質も決定された。
近代学校の教師は、寺子屋師匠のように誰でもが自由に開業できるものではなくなった。
その名称も、師匠から教員へと転換されることとなった。
「教職は標準化され、近代化されたが、反面、画一化され統制化されなければならなかった」

近代学校での教員には、国が掲げる文明開化や殖産興業の目標にそって、国の定める(欧米流の近代的)教育課程を教えるという「公務」を担うことが期待される。ちなみに、1873 年以来第二次世界大戦後の教育改革にいたるまるで、小学校の正規の教員の職名には「訓導」「准訓導」という名称が用いられた。

 

◆教員養成の開始
学制発布に先立ち、1872年、政府は、米国から教員養成の専門家(マリオン・スコット)を招聘して、東京師範学校を設立する。スコットは、すべての設備や教材を米国から輸入し、米国の公立学校で活用されている教授法(一斉教授法)を生徒たちに教え込んだ。さらに、師範学校は、教科書の翻訳、新しい教育課程の編成、教員や児童向けのハンドブックの作成などを行い日本の初等教育に大きな影響をおよぼす。

1870年代末までには、各県に少なくとも1~2校の県立師範学校が設立されていた。
師範学校での教員養成がはじまったが、その卒業生は限られており、実際には、寺子屋の師匠がそのまま教員に横すべりしたり、明治維新で職を失った士族、読み書き能力のある神官、僧侶などが教員となった。
新しい公立学校の教員は、近代国家建設のため国民を啓蒙する担い手となることを期待されたが、新しい教育課程や教科は、寺子屋で教えられていたものとは大きく異なっていた。西欧流の学校教育の理解、近代的な教授法の修得ということでは、初期の学校教員の実態はいまだに貧弱なものがあった。

 

◆森文相の教員養成論
1885 年、内閣制度が 導入され、伊藤博文が初代首相に任命される。
伊藤により米国、英国などで外交官を 経験していた開明主義者の官僚、森有礼が 初代文部大臣に任命される。
西欧化による国民の啓蒙を続行しつつ、天皇を中心とした日本人としての国民意識形成と倫理的行動原理を育成強化するというという重要な 課題と、明治初期から目前の必要をみたすために応急的、試行錯誤的に進められてきた教育事業を整理して、一貫した教育体系を作り上げる課題が森有礼に課せられた。
この森文相によって、1886年に「小学校令」「中学校令」「帝国大学令」「師範学校令」が公布され、この後の日本教育発展の基盤となる教育制度の基本的骨格が形成されることになる。

森文相は、国民教育における初等学校教員の重要性を認識しており、師範学校の役割を重視した。
森の制定した師範学校令において注目されることは、法令の条文でわざわざ、未来の教員に「順良」「信愛」「威重」という三つの気質ないしは徳性を植えつけることをめざすと書き込んでいることである。
師範学校の生徒が身につけるべき理想的な資質は、「順良、信愛、威重」すなわち、上長の命令に従属すること、同僚に愛情あふれた信頼を寄せること、児童の行動や態度を重々しく威厳をもって統制するということにされたのである。

未来の教員に徹底して国家的イデオロギー(国民道徳と天皇への忠誠)を注入することを目指す。
生徒は、兵式体操で身体を訓練し、また全員が寄宿舎生活をして帰属意識や集団的規律を身につけた特有の人物像が形成されることになる。

かくして明治に整備された法制度により、絶対的正なる存在としての教員がつくりあげられることとなった。
この絶対的正なる存在として位置づけるべく、「聖職」なる言葉を当てはめたのではなかろうか。
すなわち、国家主義を植えつける重要な役割=染脳者として、抗うことのできない絶対者をつくり、染脳教育を推し進めるために

 

◆教授法・教授理論の探究
1887年ドイツ人ハウスクネヒトによって紹介されたヘルバルトの教授理論をベースにした「五段階教授法」(予備、提示、比較、総括、応用の五段階)が開発され、明治30年代以降、わが国の公教育の教授法の定型をつくっていった。五段階教授法は、できる限り短期間に、多くの知識や技能を児童に教え込むための効率的な教授法を模索していた教員たちに受け入れられていった。

いわゆる「詰め込み教育」は明治時代に西洋からの輸入によって開発されていた。

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