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2019年05月30日

キリスト教→近代科学の終末論的宇宙観(時空認識)

近代科学が架空観念であることを示す事例は他にもある。
キリスト教が近代科学に及ぼした、終末論に基づく特異な時空認識と宇宙観である。

●西欧以外の古代人にとって、時間とは宇宙の循環を表すものであった。
ほとんどの古代人の時間認識は、円環的・循環的時間観であり、そこでは過去と未来の区別がなかった。
唯一の例外が最後の審判=終末論を体系化したペルシアのゾロアスター教である。
そのパラダイムを受け継いだキリスト教は天地創造にはじまる世界の出来事の一回性と最後の審判に終る歴史的終末論と直線的な時間観を主張した。
それは古代人に普遍的であった循環的で再現可能な時間観と対立する。アウグスティヌスは『神の国』でキリスト教教義を支える終末論的な直線的時間観を述べて、それに反するギリシア人を痛烈に非難している。
つまり、キリスト教の天地創造論と終末論に基づいた時間認識は歴史的に見て、決して普遍的なものではなく、極めて特異な認識である。
そこでは、空間も天地創造から一方的に無限に広がるが、やがて終末を迎える。そして、時間も空間も不可逆(一回限り)とされている。

一方、日本の江戸時代以前の時間認識は次のようなものである。
夜明け前と夕暮れ時を基準にして、昼を6等分、夜を6等分し、この6等分されたものを「一つ(一とき)」と云う。夜明けや日暮れは季節によって変わるので、夏の昼の「一つ(一とき)」は長く、夜は短く、冬は昼は短く、夜は長くなる。そのため、1年間を二十四節気にあわせて二十四分割し、時刻を変えていた。自然に合わせた生活であり、これを不定時法と云う。

日本に限らず、西欧中世でも農民の間では時間は循環すると考えられており、季節に関わらず昼が12時間、夜が12時間だったという。
このように、直線的時間認識に支配されたのはキリスト教→近代科学が発達した近代西欧人だけであって、それ以外の民族にとっては、時間とは宇宙(自然対象)の循環サイクルを表すものであり、宇宙の循環と不可分一体のものであった。だから、昼夜を6等分するという、自然の循環に合わせた対象世界と一体化した時間認識だったのである。
その代表が、原日本人(カタカムナ人)の時間・空間認識である。
楢崎皐月氏は『相似像 第六号』「ニ.物の観方考へ方の相異の根元(時・空量、質量について)(4)最新の科学とカタカムナのサトリ」で、次のように述べている。
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時間といふものは、物体が発現しない限り、無いものである。「物体の存在」を離れて「時間」が存在する事はない。物体の存在の他に、時計が時を刻むような「時間」があると思ふのは、人間だけが思考作用によってつくりあげて居る「観念」にすぎない。
本来、生物にとって「空間」とは、めいめいの生存する「トコロ」のことであり、「時間」(トキ)とは、めいめいのイノチが刻々に発生消滅を続けて、統計的に存在し(イマタチ)、トコロを占めて居る期間のことである。言ひかへれば、ものが発生してトコロを占めると同時に、それぞれのトキ(時間の経過)が存在するだけで、時間と空間は、決して分離して存在する二つの「元」などではない。
時計で計る客観的な「時間」は、人間が決めた約束までのことであり、星の距離をはかる光年も、計算上の方便にすぎない。人類や地球や自分の変遷を、歴史的な「時間」として意識するのは、人間だけの観念作用であり、<トキ トコロ>と異なる時・空の観念が固定化して、現実から遊離し、「カン」を狂はせて事実の本質を見失ひ、生命を損ふ方向にゆくとしたら、全く、愚かな悲喜劇である。
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