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2019年5月30日

2019年05月30日

宇宙の循環を捨象した時空認識を前提とする近代科学の根本的誤り

●宇宙(自然対象)の循環を無視して成り立っている近代科学
ニュートンは外的な事物とは無関係にそれ自体で一様に流れる「絶対時間」や、外的事物とは無関係に存続する不動かつ不変の「絶対空間」概念を唱え、それが近代科学の大前提となっている。
しかし、楢崎皐月氏が指摘するように、このような宇宙(自然対象)の循環と切り離された時空認識は架空観念ではないか。
そして、このような時空観→ニュートンの絶対時間・絶対空間は時間・空間を数学的形式に当てはめるのに都合が良かった。
その代表がデカルト座標である(その原点座標0は、デカルトが原点とする自我に相当する)。
実際、近代科学の物理量(単位概念)は、この時間と空間(長さ)と質量と電気量を加えた4つ基本単位を組み合わせて構築されている。つまり、この時空観が近代物理学の根幹概念を成して、現代の科学者の頭を支配している。
しかし、その大元の時空観が宇宙(自然対象)の循環と切り離された架空観念なのだとしたら、近代科学では宇宙(自然対象)を解明することができないのは当たり前である。
「デカルト座標」(これを学校で教え続けている)
Cartesian_coordinate_system

●物理学者の朝永振一郎氏も、現代物理学の矛盾の所在がその時間・空間概念にあることを指摘している。
氏の著作『量子力学と私』(みすず書房刊)から引用する。
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それでは、自然は一体どちらを望んでいるのであろうか。
すなわち、相互作用をいくらでも小さくすることが実際に可能であり、したがって互いに無関係な素粒子という概念が明確な意味をもっていて、その上無限大などの現れて来ない理論が要求されているのであろうか。
それとも、相互作用の小ささには限界があり、したがってわれわれの理論の構成の土台になっていた「互いに無関係な素粒子」という概念の変更が要求されているのであろうか。
このいずれかが自然の真相である。
しかして量子力学と相対性理論とをそのままの形で結び合わせたわれわれの理論は、このどちらにも属せずに内に矛盾を含んでいるのである。
この矛盾の所在は多分この理論の中の素粒子とか相互作用とかあるいは時間とか空間とか、そういう概念にあるのだろう。
なぜならこれらのものは相対性理論において絶対運動の概念が、量子力学において粒子・波動の概念が受けたような批判を、まだ少しも受けずに多分日常的な意味で用いられているからである。
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答は後者である。物理学の前提を成す「互いに無関係な素粒子」や「絶対時間・絶対空間」など存在しないのである。

●宇宙の循環を無視した近代科学を象徴するのが、天地創造説に基づくビッグバン説と終末論に基づく熱力学である。
古くは12~13世紀、神学者グロステストは<光>によるビッグ・バンとでも言うべき特異な宇宙開闢説を提唱している。ここで言う<光>は、物理的で可感的な光ではなく、すべての物体に先だって存在する形而上学的存在である。この説は「神は”光アレ”と言った」という『創世記』冒頭に伝えられている光を踏まえたものであろう。

そして、「宇宙はひたすら無秩序化→熱的死に向かっている」という熱力学の第二法則(エントロピーの法則)は終末論を引き継いだものであろう。
熱力学第一法則も第二法則も宇宙は孤立系であることを前提として成り立っている。物質もエネルギーも時間とともに孤立した空間の中に無秩序に拡散してゆき、いずれ「熱的死」を迎える。そして、その孤立空間の中で、時間も空間も不可逆(一回限り)のものとされている。

ところが、この熱力学の法則では生命現象は説明できない。それは熱力学が孤立系を前提としているのに対して、生命は常に流転し、常に外界とのエネルギーの流出入があるからである。

楢崎皐月氏が発掘したカタカムナ人の認識では、宇宙は孤立系ではなく、有限宇宙球<アマ>を取り巻く無限の潜象世界<カム>との間で常に循環している。そこでは、時間量も空間量も相互に入れ替わりながら、物質もエネルギーも相互に入れ替わりながら、無限世界<カム>と有限宇宙球<アマ>の間を循環している可逆性のものである。そこでは熱力学の第2法則(無秩序化)とは逆方向の、秩序化=統合の法則が存在しているという。
それに対して、終末論的熱力学をはじめとする近代科学の欠陥の一つは、自然対象が(宇宙も生命も)循環していることを捨象していることにある。それでは循環する宇宙や生命を解明できるはずがない。

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2019年05月30日

キリスト教→近代科学の終末論的宇宙観(時空認識)

近代科学が架空観念であることを示す事例は他にもある。
キリスト教が近代科学に及ぼした、終末論に基づく特異な時空認識と宇宙観である。

●西欧以外の古代人にとって、時間とは宇宙の循環を表すものであった。
ほとんどの古代人の時間認識は、円環的・循環的時間観であり、そこでは過去と未来の区別がなかった。
唯一の例外が最後の審判=終末論を体系化したペルシアのゾロアスター教である。
そのパラダイムを受け継いだキリスト教は天地創造にはじまる世界の出来事の一回性と最後の審判に終る歴史的終末論と直線的な時間観を主張した。
それは古代人に普遍的であった循環的で再現可能な時間観と対立する。アウグスティヌスは『神の国』でキリスト教教義を支える終末論的な直線的時間観を述べて、それに反するギリシア人を痛烈に非難している。
つまり、キリスト教の天地創造論と終末論に基づいた時間認識は歴史的に見て、決して普遍的なものではなく、極めて特異な認識である。
そこでは、空間も天地創造から一方的に無限に広がるが、やがて終末を迎える。そして、時間も空間も不可逆(一回限り)とされている。

一方、日本の江戸時代以前の時間認識は次のようなものである。
夜明け前と夕暮れ時を基準にして、昼を6等分、夜を6等分し、この6等分されたものを「一つ(一とき)」と云う。夜明けや日暮れは季節によって変わるので、夏の昼の「一つ(一とき)」は長く、夜は短く、冬は昼は短く、夜は長くなる。そのため、1年間を二十四節気にあわせて二十四分割し、時刻を変えていた。自然に合わせた生活であり、これを不定時法と云う。

日本に限らず、西欧中世でも農民の間では時間は循環すると考えられており、季節に関わらず昼が12時間、夜が12時間だったという。
このように、直線的時間認識に支配されたのはキリスト教→近代科学が発達した近代西欧人だけであって、それ以外の民族にとっては、時間とは宇宙(自然対象)の循環サイクルを表すものであり、宇宙の循環と不可分一体のものであった。だから、昼夜を6等分するという、自然の循環に合わせた対象世界と一体化した時間認識だったのである。
その代表が、原日本人(カタカムナ人)の時間・空間認識である。
楢崎皐月氏は『相似像 第六号』「ニ.物の観方考へ方の相異の根元(時・空量、質量について)(4)最新の科学とカタカムナのサトリ」で、次のように述べている。
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時間といふものは、物体が発現しない限り、無いものである。「物体の存在」を離れて「時間」が存在する事はない。物体の存在の他に、時計が時を刻むような「時間」があると思ふのは、人間だけが思考作用によってつくりあげて居る「観念」にすぎない。
本来、生物にとって「空間」とは、めいめいの生存する「トコロ」のことであり、「時間」(トキ)とは、めいめいのイノチが刻々に発生消滅を続けて、統計的に存在し(イマタチ)、トコロを占めて居る期間のことである。言ひかへれば、ものが発生してトコロを占めると同時に、それぞれのトキ(時間の経過)が存在するだけで、時間と空間は、決して分離して存在する二つの「元」などではない。
時計で計る客観的な「時間」は、人間が決めた約束までのことであり、星の距離をはかる光年も、計算上の方便にすぎない。人類や地球や自分の変遷を、歴史的な「時間」として意識するのは、人間だけの観念作用であり、<トキ トコロ>と異なる時・空の観念が固定化して、現実から遊離し、「カン」を狂はせて事実の本質を見失ひ、生命を損ふ方向にゆくとしたら、全く、愚かな悲喜劇である。
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2019年05月30日

近代科学の法則は、数学的に公式化できるように作られた架空観念

山本義隆氏は「近代科学は自然を虚心坦懐に在るがままに記述するものではない。近代科学の法則とは数学的処理ができるように人間が単純化し抽象化した現象の法則である」と述べている。『新・物理入門』駿台文庫 『十六世紀文化革命』みすず書房
その要旨は以下の通り。
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近代科学、とりわけ物理学は、自然を虚心坦懐に眺め在るがままに記述するのではなく、複雑で多彩な自然を単純化・理想化し、特定の現象を捨象することから始まる。
近代以前のアリストテレス自然学では、物体の熱い・冷たい、湿っている・乾いているという性質が本質と考えられていた。実際、日常的に経験される現実の物体はそのような多彩な性質をもつ。しかしガリレイやデカルトは、そのような性質は感覚する人間との関係であり、物体にとって本質的ではないとして捨象し、物体を位置と幾何学的形状だけをもつものとして単純化した。
また小石はストーンと速く、木の葉はヒラヒラとゆっくり落下する。それに対してガリレイは、その差は空気抵抗の影響で、空気抵抗が十分小さくなった極限としての真空中では小石も木の葉も同じ加速度で落下すると主張した。
ガリレイは、物体を幾何学的に単純化された抽象物、空気抵抗を物体の運動にとって副次的・非本質的撹乱要因だとみなす。ガリレイにとって現象とは取捨選択され理想化された現象である。それによってはじめて運動の本質が暴き出されるとガリレイは考えたのである。

ガリレオは「物体がなぜ落下するのか?なぜ加速されるのか?」という追求を放棄し、真空という現実には存在しない理想状況で、物体はどのように落下するのかという問題(落下運動の数学的表現)に自ら守備範囲を限定した。万有引力の法則を数学的に定式化したニュートンも、重力の本質(なぜ引き合うか)を明らかにせず、自ら棚上げにした。

近代科学、とりわけ物理学の成功の理由の一つは、本質の追究を放棄し、その目的と守備範囲を数学的法則の確定に限定したことであるが、数学的に法則化させるためには、あるがままの自然を受動的に観察するのでほなく、現実には存在しない理想にできるだけ近い状況を人為的・強制的に作り出す必要があった。
実際、カントも「近代物理学の法則はあるがままの自然にたいする虚心坦懐な観察や、無前提的で闇雲な測定によって導かれるものではない。その検証は、人間の思考の枠組みに適合するように自然にたいして強制的に働きかけてはじめて可能となる」と記している。

また、数学的処理になじむよう現象や対象を単純化・抽象化しなければならない。そうして数学的に法則化されたのが近代物理学の法則である。
例えば、物理学で扱う物体を抽象化した概念として、質点・剛体・弾性体などがある。質点は位置のみをもち、大きさはない。剛体は大きさをもつが、変形しない。弾性体は力を加えると変形するが、力をのぞくと元に戻る。
しかし、現実の物体は大きさをもち、力を加えれば変形し、力を除いても完全にはもとに戻らない。つまり、質点も剛体も弾性体も、現実の世界には存在しない抽象概念である。
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ロシア科学アカデミーの佐野千遥氏も「現代物理学は自然には実在しない連続実数値を前提とする誤った数学(微積分と確率論)を利用するという決定的な誤りを犯している」と指摘している。
ということは、近代科学の概念や法則は現実を対象化したものではない。数学的に公式化できるように作り上げられた架空観念にすぎない。
その結果、どんなことになったか?山本義隆氏は、次のように述べている。
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近代自然科学の法則は、周りの世界から切り離された小世界、環境との相互作用を極小にした実験室の中で人為的・強制的に創出された現象によって導き出されたものである。自然科学はこのような特殊限定空間における法則の体系であり、そのような科学に基づく技術が、生産の大規模化にむけて野放図に拡大されれば、実験室規模では無視することの許された効果や予測されなかった事態が顕在するのは避けられない。
そもそも、近代の科学技術が自然の支配と地球の収奪を目的としたものである以上、自然破壊や生態系の混乱を生み出すのは必然である。

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