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2020年04月14日

言語の進化過程(1) ~言葉は、みんなで、答えを追求するためにある。その中身を、みんなに伝えるためにある。~

4月に入り、多くの若者が社会に出ました。社会に出れば答えのない課題ばかり。その課題を突破するには、本物の追求力が求められます。
ところが、これまで過ごしてきた学校は、答えが決まっている問題ばかりが与えられてきました。学校では、答えを理解することに大半の脳力が費やされますが、その答えは潜在思念(本能や共認機能や観念原回路)と殆ど繋がっておらず、専ら観念機能だけが使われてきたことになります。
そして、観念回路だけを使って答えを理解し続けるうちに、「頭を使うというのは、答えを理解することだ」という試験脳が強固に形成されています。潜在思念と繋がっていない観念(知識)など、単に暗記脳に蓄積されただけなので、現実に使いこなすことが出来ません。従って、社会に出ても役に立ちません。

そもそも観念機能(≒言葉)は、どのように形成されてきたのか。るいネット「言語の進化過程」(リンク)(リンク)から紹介します。

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動物の鳴き声は、みんな(or相手)に、何かを伝えるためにある。伝えたい内容は、主に危険や餌の発見、あるいは威嚇や発情である。
人類の言葉も、みんなに何かを伝えるためにあるように見える。しかし、実は人類の言葉の生命は、伝える手前の追求の過程にこそ宿っている。即ち人類の言葉は、みんなで考える(答えを出す)ためにある、従って当然みんなに伝えるためにあるという二重性を持っている。大事なのは、言葉を発する前にある伝えたい答え=何らかの意識or認識である。
それに対して、考えるまでもない危険や餌の情報をみんなに知らせるのは、サルと同じように鳴き声で充分だっただろう。

このように人類の言葉は、その伝えたい内容が明らかに動物の鳴き声とは異なっている。それは、人類が追求し続けてきた内容(→言葉として発信したい内容)が、本能や五感で捉えられる対象を超えた超感覚的な対象であったからである。
人類は、足の指が先祖返りして樹上に棲めなくなったカタワのサルであり、想像を絶するような極限的な生存環境の下で500万年に亘って洞窟に隠れ住み、奇跡的に生き延びてきた動物である。
洞窟時代、人類の意識の最先端にあったのは、原猿が共認機能を形成していった始原の意識とほぼ同じ意識内容であっただろう。即ちそれは、不整合な世界を前にして生じた「どうする?」という課題意識だったと考えられる。

類は生存力を強化するために、直立歩行の訓練に励んだが、日々の歩行訓練は踊りのトランス状態へと昇華され、更に日々の性充足へと昇華されていった。これは、同類闘争という不整合な世界に直面した原猿が、縄張りを確保できずに親和充足へと後退して、共認機能を形成していった過程と同じである。絶望的な状況に置かれた人類にとって、この踊りと性の充足こそが、生きてゆく最大の活力源となった。

しかし、解脱充足は活力源と成っても、それだけでは生存の危機→「どうする?」の答えにはならない。相変わらず、生きる為には洞窟を出て、決死行に身を挺さなければならない。従って、不整合な自然世界を前にした「どうする?」という課題共認とみんな追求は連綿と続けられたが、おそらく、それは踊りや性充足の後の半トランス状態で行われたであろう。
こうして、「どうする?」に始まる追求(という課題)共認と追求充足によって、徐々に追求充足回路=観念原回路が形成されていった。

この観念原回路には、現代人が失って終ったものが二つある。
一つは追求回路の根っこに接続していた宇宙と一体化したトランス感覚である。
とは云え、トランス感覚の更に根っ子の共認充足回路は、もちろん現代でも確り追求回路に接続しているし、何よりも根本の適応本能(=秩序化本能=論理整合性を形成する根元)は追求回路に直結している。
もう一つは、洞窟の中で研ぎ澄まされた感覚機能が追求回路の先端に接続していたことであるが、もちろん現代でも追求回路が感覚機能に接続しているのは言うまでもない。

 

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