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2020年08月06日

これからの共同体社会はどのように創られていくのか-10

前回は、赤子を事例に成長のそして学びの原点が「まねる」ことであり、全力で対象に同化を試みた果てに能力を形成することを述べた。そもそも、この同化するという機能はミラーニューロン等と呼ばれ、あらかじめ備わっている機能である。ではその機能を発動させる動因は何かといえば、対象と一体化したい欠乏と言わざるを得ない。そうすることで得られる充足状況を求めるための欠乏。ただそれだけであるように思う。

その状態は、例えば仏教では解脱と称したり、性の世界では恍惚(エクスタシー)という状況など、自己と対象が混然一体で溶け合う感覚や、宇宙の時空と同化した感覚として語られている。

現代の日常生活では、その境地には到底及びもしないが、歴史的に縄文の名残から、かつて「誓約(うけい)」という行為で集団の対立課題を乗り越えてきた日本人にとって、この一体化欠乏を起点に集団としての共同体の再生の可能性が横たわっている。時代を貫通して性を中心とした母系集団の強さを探る。

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■異民族の対立でさえ解消する「誓約」の原点にも一体化欠乏がある

かつて、食糧確保や自然災害などの生存外圧が高かった時代、集団どうしの対立を解消する方法として性を中心とした統合原理で乗り越えてきた歴史がある。全面的に相手を受け入れることであるが、そもそも同類に対して敵という概念がないことが人類にとっては当たり前の捉え方であったはず。だからこそ「誓約」という様式の原点にも一体化欠乏に基づく同化機能が作動する。

 

「性」を中心に据えた、力に頼らない日本古来の集団統合~誓約(うけい)~

相手を否定し征服するのではなく、相手を受け入れ和合する事でその安寧を保ってきた日本人のこの精神は、略奪闘争から隔絶された島国ゆえに醸成された独特の文化です。

一つの国家内に様々な部族・民族が存在する状況は世界的に見て珍しい事では有りませんが、和合と同化、共同性をもって統合を成し遂げてきた日本のこの考え方はきわめて独特、かつ人類としての普遍性を持っています。
「性」を中心に据えた力に頼らない集団統合、この発想の柔軟性には見るべきものがあると思います。

以下、未来狂冗談氏のブログリンクからの引用です。

神話や伝説の類を良く読んで見ると、誓約(うけい)はロイヤリティ(忠誠心)を示す為のもので、誓約(うけい)の結果として新たなる神や子供が誕生する事が多い。
つまり、性交を伴う現実的な忠誠の証が誓約(うけい)なのである。
大和朝廷成立前後の古(いにしえ)の日本列島は、民族(部族)の坩堝(るつぼ)だった。
古い時代に住み着いた在来部族と、後期に渡来した進入(流入)部族の生きる為の争い。
その手打ち式が天の岩戸の宴席、岩戸神楽だった。
日向の地で決戦に破れ、高千穂の天岩戸で手打ちを行い、誓約(うけい)を持って、心身ともに和合する事で「両者統一に向かった」とするなら、ドラマチックではないか。
異民族の王同士の結婚、これは民族の和解を意味し、双方が滅びないで済む究極の和解であり民族同化の象徴である。
この誓約(うけい)の概念が、実はその後の二千年の永きに渡り日本の民(民族)の形成に大きな影響を与えて行くのである。

基本的に、人類は「群れ社会」の動物である。
人間の行動の全ては、生き行く事の恐怖心から始まっている。
食料の確保、外敵、傷病、全てが生き行く為の恐怖に繋がっているから群れて「共生」して来たのである。
人類は群れて生きる共生動物だからセッション(交流)が大事で、そのセッション(交流)の最たる形態的象徴が性交を手段とする誓約(うけい)である。
誓約(うけい)のそもそも論は「対立の解消」にあり、その究極の証明形態が契(ちぎり/性交)に拠るコンプライアンス(要求や命令への服従)の実践で、後に恋愛感情に発展する事は有っても初期の段階では恋愛感情とは全く別のものである。

(中略)

明治維新で日本の性文化が劇的に変わるまでは、恋愛感情とは別に誓約(うけい)の概念に拠るセッション(交流)の最たる形態的象徴「性交」が群れの「共生手段」として社会的に容認されて来た。
そこで、「欧米のキリスト教文化」とは違う「日本独自の性文化」が存在したのである。
その歴史的事実を、日本は先の大戦(第二次世界大戦)以後の急速な欧米化に拠って抹殺してしまった。
つまり歴史的経緯の中で醸成された「独自文化」であったにも関わらす、ほんのここ百~二百年かそこらで存在しないがごとく封印されてしまった。
隠すだけでは「問題は解決しない」と言う現実は多いのだが、建前を使う事に慣れ過ぎたこの日本国においては、都合の悪いものには「見っとも無い。外聞が悪い。」と蓋をして、何一つ解決せずにやり過す風潮が多過ぎるのである。

 

■集団統合の要は「おかみさん」

上記、「誓約」の流れを汲んで、時代が下っても集団を仕切る要に「おかみさん」として確たる存在があった。果たして現代にこの「おかみさん」としての器量をを持つ人がどれだけいるのだろうか? 今後、強制的な力に頼らない共同体社会にむけて、集団としての統合の在り方を考えるうえでも欠かせない。

 

「おかみさん」に見る、日本独特の性と集団統合の関係

「皇統と鵺の影人」さんリンク の「おかみさん(御上さん)文化」という記事です。

今でも、旅館や料亭を仕切る女性を「おかみ」と呼びます。この場合、旦那がオーナー的な立場であるのに対し、「おかみ」が現場の一切を仕切る統合者となります。また、明治以降、株式と資本という概念が流入し、「あきない」は「商社」という企業体で行われるのが一般的となってしまいましたが、それ以前は「商家」と言う、あくまで「あきない」を行う「家」という概念でした。

古来、日本では集団統合に際し「性」をその媒体としてきました。古代は神に仕えるシャーマン=巫女がその役割を担い集団を統合してきました。この観念は日本人の精神基盤として受け継がれ、近世になってもその方法が集団統合として使われていた。その一つが「おかみさん」文化という見解です。

以下、抜粋引用します。
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■おかみさん(御上さん)文化
江戸期、日本の町屋社会(商家社会)には「おかみさん文化」と言うものが在った。
御上(おかみ)さんと書いて、人妻や主人筋の妻や女主人などを指す言葉だが、日本史的に上(かみ)は神(かみ)に通じる言葉である。そもそも論で言えば、おかみさんは「お神さん」で、古い時代の呪詛巫女の慣習が変化しながら残っていた可能性が有る。現在の社会合意では、誓約(うけい)の性交など「理解出来ないとんでもない事」である。しかし時代背景を考えれば、部族混血に拠る「部族間の争いに対する平和の獲得」の神事は必然とも言え、当然考えられる知恵である。
(中略)

「おかみさん文化」は、武士兼業の商工氏族、つまり有姓百姓が多かった上方(関西地区)で始まったものだが、「商家特有の文化」として江戸期には日本全国に広まった。昔の商家には一生を独身で済ませ、お店(たな)大事を貫く番頭の存在が落語や講談、読み本などで紹介されているがあれには裏がある。実はその番頭は、おかみさんの肉体で満足していた。けして不義密通ではない。それが商家に嫁いだおかみさんの現実的な役目だった。

大店(おおだな)を内側から守るのがおかみさんの役目で、それには信用できる使用人の育成は欠かせない。肉体的繋がりほど強いものは無いので、丁稚(でっち)はともかく、目端が利きそうな手代(てだい)辺りから、おかみさんが性欲の面倒を見て手懐ける習慣が、町屋社会(商家社会)では公然の秘密だった。この関係、小使いは少なくても我慢させ、忠誠を尽くすだけでなく、悪い遊びを覚えてお店(たな)の金に手を付けたり、悪い病気を拾って来るのを防ぐ役割もあって、当然お店(たな)の旦那公認の「面倒見の行為」だった。

旦那公認で、使用人の性欲の面倒見の行為が、平然と行われていた。すると不義密通話は何なのか?あれは、情が通って駆け落ちなどをする場合いで、唯の性欲の面倒を見て使用人を手懐けるのとは訳が違うのである。正に肉体的繋がりの信頼関係を、昔の町屋社会(商家社会)のおかみさんが勤めていた事になる。「情が通わない肉体のみの性行為と言う点では昔の方が現実的な考え方で、今の上辺だけの考え方を「さも真実だ」とする主張の方が空虚なのである。勿論、使用人に所帯を持たせて「のれん分け」をする事も有るが、考えて見れば商売敵の同業者を増やす事になるのだから、理想はお店(たな)に縛り付けるに越した事は無いのである。

それにしても、大店(おおだな)の「おかみさん」も、「それを覚悟の嫁入り」と言う事になる。当たり前ながら当時はそれが常識で、今の物差しで見るから読み間違う。何しろ、大店(おおだな)の旦那には妾の二~三人は居て、その妾にもおかみさんの方が「旦那が世話になる」と盆暮れに付け届けの挨拶をする文化だった。その時代を気高く生きるには、その時代の女性の生き方がある。自分も手代(てだい)や番頭の性欲の面倒を見てから、それで互いのバランスを取って居た訳である。つまり、繁盛している商家程使用人の数が多く、おかみさんの身体は、信用が置ける使用人の育成に忙しかった事になる。

 

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