2021年06月03日
共同体社会へむけて金融システムをどう乗り越えるか
今回は、共同体社会の在り様に照らして、現代の金融システムをどう乗り越えるか、そこに焦点を当てたい。
現代社会は経済万能のような状況を呈している。すなわち、お金がなければ何もできない、根底的にはお金を稼ぐことが活力という価値に基づいている。そして様々な制度システムも財政も企業会計も貨幣経済の一環で成立している。搾取する側が唱えた「市場拡大が絶対的な価値」であるが故に世界中が貨幣経済圏に取り込まれてしまった。それまでは、共有・贈与でお互いの信頼を前提とした共同体間の交流(経済活動)が、交換・契約という得体のしれない者同士の警戒を前提としたものに転換してしまったともいえる。
一方で、現在の金融システムはいつ破綻してもおかしくない状況にまできている。当然無限に拡大できるはずもなく、はじめから破綻する欠陥をはらんだもので持続不可能なものに過ぎない。そして、すでにお金をはじめとする私権に対する収束力はなくなりつつあり、その原動力自体消滅した残骸となった。これからの時代が共同体社会となる必然は、信頼を母体とする経済活動=生産活動が基本となることである。初めから、効率や、平等といった概念と経済は無関係なのである。
共同体社会にとって、持続可能なシステムは信頼性とともに、実感(本能機能や共認機能)と照らしても整合性があることが不可欠であろうと思う。つまり誰もが納得できるものでありながら、必ずしも世界中で統一されたものである必要はない。
今回も、そのような可能性を示唆する記事を紹介したい。
贈与経済への潮流~“気持ち”が売り買いの対象になる時代(1)
2013年8月の記事ですが、「贈与とお布施とグローバル資本主義 鼎談:内田樹×釈徹宗×後藤正文」リンク より紹介します。
後藤:(略)今後は、クリエイティブ・コモンズのような、ある一定の条件を守れば著作権フリーという流れが進むような気がします。僕はそこでも〝贈与〟っていう概念が役に立つんじゃないかという直感があって」
内田:「贈与って聞くと、多く持っている者が少なく持つ者に分け与えるというような偉そうなイメージを持たれるかもしれませんが、違います。贈与は〝自分は何もしていないのに先行者から贈り物をもらっちゃった〟というところから始まるんです。もらったままだと負債感を覚えるので、次にパスしたくなる。これが基本的な流れです。何を贈与されたものと感じるかは人それぞれ。自分の身体髪膚(しんたいはっぷ)、何千年もかけて体系づけられた日本語、文学、音楽……。身の回りのすべてが贈与されたものに思える人は幸福なんですよ」
後藤:「自分はこんなにもらったんだから、他の誰かにもあげたいなって、自然に感じられるということですよね」
内田:「そう。被贈与感って、自分が誰かに承認されて愛されていることの説明にもなりますよね。何しろもらえるわけですから。大きなものをもらえばもらうほど、人にもあげたいという〝反対給付〟の義務が発生する。これが人間の本質です。もらいっぱなしで平気な人は、本当は人間じゃない(笑)。あげたいという心の動きを持つことで、人間は初めて経済活動をスタートさせ、共同体を形成できます。風でたまたま飛んできたゴミかもしれないけど、宛先を自分だと思ってそれに感謝し、代わりの何かを置く。商品であれば自分がエンドユーザーになることは可能ですが、贈与されたものはそもそも商品ではないので、パッサーにしかなれないんです」
釈:「ユーザーとパッサーの違いというふうに考えるとわかりやすいですね」
内田:「贈与って、実は時間の流れがないと成立しえないものです。先行者からもらったものを次世代にパスし、長く継続させるのは、実は宗教共同体内で行われることそのものなんですよね。宗祖による宗教的な教理や儀礼を自分が下に伝えていく。道場のような教育共同体でも同様に、師から受け継いだ教えを自分の解釈を加えて伝承します」
釈:「それはさっきの話とも繋がってきますね。贈与という考え方を通して、今後我々がいかに肌感覚を〝今・ここ〟から伸ばす装置を作れるか? 先祖や未来の子供たち、隣人、他国の人々……想像力を高める訓練は重要ですね」
後藤:「釈さんにお聞きしたいんですけど、仏教では贈与という概念はどのように捉えられているんですか?」
釈:「仏教では教義の基本として喜びであれ苦しみであれ、自分の気持ちをものにべったり貼り付けるのは具合が悪いんですよ。執着っていう言葉があるでしょ? 一般的には〝しゅうちゃく〟ですが、仏教では〝しゅうじゃく〟と読みます。ではなぜ貼り付けてはいけないか能というと、それによって認識や判断が歪んでしまうから。理想的な心の形は、鏡のように〝もの〟そのままの姿を映し出すことなんです。しかし執着心があると、実際より大きく映したり色をつけたり、すでになくなっているのにその姿を映し続けたりする。そうした固着をなくすトレーニングとして、お布施があると考えます。手放していく。つまり贈与です」
釈:「布施は、大きく〝財施(ざいせ)〟〝法施(ほうせ)〟〝無畏施(むいせ)〟の3つに分けられます。〝財施〟とは持ち物をシェアすることで、固着を起こさないトレーニングです。分配によって、自分を強くしない。〝法施〟は、教えやよりよい生き方を語ること自体が布施になるという考えです。たとえば内田さんの講演会に行った誰かが〝ええ話聴けたわ〟といってものの見方を変えたとしたら、内田さんは立派なお布施をしたことになります。〝無畏施〟は文字通り相手に畏(おそ)れを与えないことです。何も持たずともこの布施はできます。柔らかな表情で相手を思いやる言葉を発し、快適な場所を準備する。それだけです」
内田:「素敵ですねぇ、無畏施」
私有経済から共有経済への可能性③ ~モノの流通ではなく人の交流を基盤に
前回紹介しました相互扶助は、基本だからこそ成立した関係と言えます。しかし既に農村は過疎化し、共同体が崩れ、相互扶助も廃れてしまいました。そんな現代で、改めて共有経済が注目されていますが、バラバラに分断された個人が『共有』するためには、やはり信頼が不可欠です。共同体という基盤のない個人同士が信頼を培うには一体どうしているのでしょうか?
今回も「経済の行き詰まりにシェアリングエコノミーという選択肢」を一部抜粋しながら、共有経済について考えて見ましょう。皆さんは、日本の高校生が起業家に投資しているのをご存知ですか?例えば「Kiva Japan」というサイトがあります。Kivaというインターネットを通じて発展途上国の起業家に融資できる国際的なサイトの日本版です。そこに行くと、例えば日本のある高校の生徒10人くらいが1人2千〜3千円ずつ東ヨーロッパの国のお母さんにお金を貸している。
そのサイトには、毎月いくら返済して、金利をいくらつけるという詳細まで全部出ているし、過去にお金を借りてちゃんと返した、あるいは返さなかったという実績も載っている。そういう仕組みがあるから、一度も会ったことがない人との取引が可能になるわけです。
これもシェアリングエコノミーの一つで、不特定多数の人がインターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力を行うこうした行為は、「クラウドファンディング」「ソーシャルファンディング」と呼ばれています。(「経済の行き詰まりに、シェアリングエコノミーという選択肢」より)
かつては資本家(金貸し)が行っていた起業家への投資という役割を、社会貢献したい人の集まりが担っているのです。これは「お金」を共有財産として位置付け、必要な人にシェアする、ということで共有経済の一つとして捉えられています。
他にも、アメリカで「ジップカー」というカーシェアリングサービス会社が生まれました。会社の所有する車を貸し出すサービスですが、その創業者ロビン・チェイス氏は、2011年パリで「バズカー」というサービスを開始。実はこの会社は、もはや車すら所有せず、車を所有している人(オーナー)と借りたい人(ドライバー)をつなぐというサービスを提供するだけなのです。利用者のための損害保険制度も新しく作りましたが、さらに「信頼」形成のために、オーナーには、ドライバーの運転記録と履歴をチェックできるような仕組みも作ったのです。
ロビン・チェイス自身、その辺を明確に意識していて、「車両に投資する代わりに、コミュニティーに投資した」と言っています。また、バズカーのような会社を「ピアーズ(仲間たちの)株式会社」と呼んでいます。バズカーのプラットフォームは信頼を担保するだけではなく、個人と個人が出会うことで新たなコミュニケーションを生み、イノベーションが起こる場になるという意味を込めて、そう呼んだのです。それがシェアリングエコノミー・ビジネスの今後の方向になると思います。(「経済の行き詰まりに、シェアリングエコノミーという選択肢」より)
冒頭に展開したように、共有経済の原点は、村落共同体にあります。したがってこれは実は新しいビジネスモデルではなく、人類の原点に回帰し始めている、その後押しをしているということ。つまり共有経済は、モノや金の流通ではなく、人の交流ということが本質なのです。
- posted by KIDA-G at : 2021年06月03日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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