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2021年06月10日

共同体社会の仕組みはどうなる?

このブログで展開してきたことは、共同体社会への転換がもはや人類にとって生物原理に照らして本来の在り様であり、そうならなければ滅亡に至る危機感からである。私有⇒共有、支配⇒自主管理、閉鎖独占からの離脱といった概念をもとに探り、それを実現するには意識構造の転換が不可欠で右脳の開放により本来の状況の捉え方、思考方法に回復することも述べてきた。

時代は遡るが、そういった実現体として縄文社会がある。今回はそういう社会を垣間見ることで共同体社会の総体=イメージとして右脳的に捉えてほしい。

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縄文時代の社会の仕組みと継続性~分業とネットワークによる持続可能な社会

NHK解説アーカイブス

世界各地に展開した人類文化の変遷を見ると、狩猟採集社会のあとには農耕社会が登場し、やがて国ができる場合が圧倒的に多いのですが、その中でも日本列島は農耕社会の成立が世界の中でも極めて遅かった特徴があります。このことは言い方を換えれば狩猟採集社会である縄文時代が長く続いたということです。この事実を日本の歴史の中でどのように理解すべきでしょうか? 考古学では2つの考え方があります。第1に日本は島国であるために大陸の文化からは切り離されて発達が遅れたというもの。第2として、そうではなく豊かな森と海に囲まれた環境に適応した技術は、農耕を必要とすることのない文化を築いたというものです。 近年ではあらたな発見から、縄文文化が原始的な狩猟採集社会のなかでも豊かな発達を遂げたと考えられるようになってきました。まず縄文文化の変遷について概観してみましょう。

まず、縄文時代を文化変化の質的な変化を示す土器の使い方や作り方に注目して6つに区分してみました。そして各時期の時間幅をその時代に使われた縄文土器に付いたすすの炭素の年代から整理すると、一目してわかるのは、縄文文化が時代の流れとともに加速度的に変化を遂げていることです。   とくにスピードを早めるのは約6000年前以降の時期です。たくさんの竪穴住居を作って定住的な集落が各地に普及する時代に相当します。そして以後も加速度的な変化が進み縄文時代の終わりの頃と最初では15倍もの変化速度の違いが認められるのです。

次に彼らの食べ物に注目してみましょう。四季折々に採れる資源が変わるのが温帯地域の生態系の特徴です。さまざまな身の回りの資源の中でもっとも重視されたのは、ドングリです。 ドングリはあくを抜いて、製粉し団子やクッキーのようにして食べたことが出土遺物から分かっています。これらは貯蔵して少しずつ食べたものと考えられ、消費期限を長くすることによって、いつでも様々な食料を食べることが出来るように準備したのです。すなわち、貯蔵技術の発達が安定的な社会の経済的基盤となっているのです。 近年では出土人骨に含まれるコラーゲンから彼らが生前に肉や魚介類や植物などをどの程度食べていたかということが推定できるようになってきました。縄文人の食べ物であった動物や植物は含まれる炭素と窒素の同位体は固有の割合をもちます。 同位体とは同一原子番号を持つものの中性子の数が異なるものです。多くのものは不安定であり時間が経つと崩壊するので、放射性同位体と呼ばれます。しかし、この同位体の一部には安定に存在するものがあります。これを安定同位体と呼びます。

自然界で食物連鎖の頂点に立つ人間の体は、食べ物からえられた物質からできあがっているため古人骨に含まれる窒素と炭素の安定同位体の割合と比べると、その人物が生前に何をどの程度食べていたのかを知ることが出来ます。 その分析成果を見ると、本州縄文人の主食が植物資源を中心に魚介類や陸上の動物などの様々な食料を組み合わせていたことがわかっています。 またやや細かく見ると同じ東京湾に面していながら、極端に様相の異なる貝類の利用形態があることもわかってきました。数の上で多数の巨大貝塚が台地上に残されるのは千葉県側です。環状貝塚といわれるように、環状に配列した住居の周囲に貝殻を捨てて出来た貝塚です。これは海の資源は集落単位で採取・消費されたことを意味します。  一方、東京の都心を乗せる武蔵野台地側では、台地上に多くの集落が河川沿いに分布していますが、中里貝塚という当時の浜辺に残された巨大な貝塚が1か所残されるだけで、海際であっても台地上に大きな貝塚はありません。

4・5mもの厚さの貝層が長さ500mにもわたって海辺に堆積しているのですが、その中身はカキの層とハマグリの層が繰り返し規則正しく堆積しています。しかもその貝の大きさは千葉県側の貝塚と比較すると極めて大きなものばかりなのです。武蔵野台地の集団は利用する貝を大型のハマグリとカキに限定しています。これは海の資源管理に地域差があったことを示しています。そして中里貝塚で採取された大型のハマグリとカキは干貝に加工され内陸のムラに流通させていたのです。このように狩猟採集社会であっても、それぞれの土地に住んだ縄文人たちには資源の利用技術の違いがあることがわかってきました。

それでは彼らはどのくらいの時間、同じ場所に住んだのでしょうか。縄文時代後期の遺跡から出土した多数の人骨の年代を測定すると、これらの人骨群は1000年の時間幅をもつことがわかってきました。集落遺跡の継続期間が極めて長期に及ぶ証拠です。狩猟採集社会といえば生活も不安定で、そのために住む場所も転々と移動するようなイメージがありますが、きわめて安定的な社会を形成していたことがわかります。  この時期のムラは5~6軒程度の住居によって営まれていました。人口は30人程度でしょう。ここで彼らは2つの工夫をしていました。1つは様々な労働に全員で取り組むのではなく、それぞれに分担を決めていたのです社会的な分業といいます。また、縄文人は装飾品としての翡翠や海の貝、接着剤としてのアスファルトなど遠隔地からの資源を入手しています。こうした事実は、遠隔地にまで及ぶ広域な流通ネットワークが存在したことを示します。一方、文化や社会の発展は潜在的な資源量を超える消費の増大が社会崩壊の原因になることが予測できます。そのために集団の規模を適正に維持し、周囲の資源量の管理や分業やネットワークの利用で適度な人口規模を維持していたと考えることができるのです。  さらに貝塚の研究で紹介したように、資源を管理する場所を周囲に配することによって、資源の入手に大きな移動をともなわない空間を作ったのです。近年では遺跡周囲の野生のマメやクリなどが大型化していた事実も明らかにされ、彼らは海や山の多くの資源について管理していたこともわかってきました。

縄文人は農耕に頼らなくても適度な人口規模で消費規模を低減させ、自然の回復力を維持し、集団の中で労働を分担し、さらに遠隔地との間をつなぐネットワークを作り持続可能性社会を営んだのです。こうした縄文時代の社会の仕組みは、農耕社会以前の狩猟採集社会の実像を考える際に重要になるだけでなく、環境破壊や資源の浪費が叫ばれる現代社会の将来を考える場合、私たちに大切な指針を与えてくれていると思います。

 

縄文人は共同体が全てであり、個という意識は微塵もなかった。

縄文人は皆共同体の一員であり、そこには個という意識は微塵もなかった。 収穫したものは皆に行き届くように分配され、自分の子供という意識もなく、共同体の皆で子育てをしていた。集団内での恋愛なんて感情も無かっただろう。近親相姦を避けるため、他集団から男を受け入れ、女系が主体の母系集団の中で安心基盤が形成されていた。

近代思想にまみれた現代とはおよそ真逆の社会だったからこそ、安定した社会が1万年以上も維持できたのであろう。 男女の役割も鮮明ではあったであろうが、生業は男だから、女だからといった線引きが明快にあったわけではなく、お互い助け合いながら、目の前の課題をこなしていったと思われる。

 

縄文人に「上下意識」があまりなかった理由

livedoor’NEWS

男だって木の実を拾う

桃太郎という昔話がある。

読者の多くが一度は目にしたこと、耳にしたことがある話だろう。その話の一節に、「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました」という部分がある。これは、男女の仕事の役割分担を表現しているわけだが、縄文時代についても同じように、仕事の役割分担のイメージがある。男は動物を狩猟し、女は木の実を採集する、というもの。

しかしそれは本当なのだろうか。

ここで少し食料確保の話をしたい。縄文人たちは自然を熟知し、四季折々に応じて食料を獲得していた。それを縄文時代研究の第一人者、小林達雄氏は「縄文カレンダー」としてまとめている。それによれば、狩猟は秋から冬にかけてやっていたらしい。イノシシやシカが越冬に備えて食料をしこたま食べ、脂が乗ったところを縄文人は狩っていた。

今の猟師たちも同じである。だからちまたのジビエ料理もだいたい秋から始まるのだ。縄文人たちは肉のいちばんおいしい時期を知っていたというわけ。じゃあ、ほかの季節は何をしていたかというと、春から夏にかけては魚介を獲っていた。地域差はもちろんあるが、丸木舟を使って集団で漁に出ることもあるし、波打ち際で貝をせっせと獲っていることもある。春は山菜を採りに山に入ったり、秋は集落の人間総出で木の実を拾い集めたことだろう。

もちろん、これら以外にも彼らは食料獲得の活動を1年中行っているわけだが、男女の仕事の役割は、既存のイメージとは少し違うのではないか。

確かに200キロを超えるイノシシ狩りの現場に女性がいるのは危険すぎる。しかし、海や川での漁であれば参加することもあったはずだ。今だって夫婦舟で漁に出る人たちもいるわけだし。子どもだって十分戦力になる。

木の実拾いもそうだ。女たちだけがカゴを背負って森に分け入っていたわけではないだろう。そもそも、縄文人のメジャーフード(主食)は木の実である。これも地域差があるが、1年とは言わないまでも、長期保存できて少ない量で効率的にカロリーを摂取できる木の実は彼らの命綱だった。

そんな大切な食料確保作業を女たちだけに任せておくはずがない。けもの道に無数に作った落とし穴での猟も、盛んに行われていたと考えられているから、男たちにはますます時間があるはずだ。のんびり矢じりを作っている場合ではない。収穫の時期は男女関係なく木の実を拾ったに違いない。働かざるもの食うべからずである。

 

縄文人には「個」の概念はなかった?

仕事内容によっては男女が区別されていたものはあるだろうが、明確に分担されていたとは思えない。

「縄文時代には個という概念がなかったのではないか」。共同体として生きている彼らにとって、「自分が!自分が!」という強い自己顕示は、生きていくうえで邪魔だったのだ。

つまり、「わたくし」という個人よりも、共同体に主体があり、その共同体の中の1人、という感覚で生きていた。

私たちにとって「個がない」というのは感覚的にピンとこない。私は私であり、この現実を生きていくためには自己をある程度主張しなければならない場面もある。中には大多数に埋没してしまうことに恐怖を覚える人もいるだろう。しかし、縄文時代は個に重きを置かない社会だった。

もう少し言うと、他者も自分も分け隔てのない世界ということになる。あなたも私も同じ存在だということだ。

獲物が取れれば、仕留めた人が総取りするのではなく、すべての人に肉が行き渡るようにする。自分だけが生き延びられればいいという考え方は存在しにくい環境だったのではないか。だって、厳しい自然環境に立ち向かうのに、ちっぽけで非力な人間が、ひとりで何ができるというのか。

彼らも人間だからいろいろと思うこともあったはずだ。腹いっぱい思う存分肉が食いたいと思うことも、そりゃあ、あるだろう。だからといって、独り占めしてしまえば、ほかに飢える人が出る。だったらそいつが自分で仕留めればいいじゃないか、と思うが、人には運がいい時も悪い時もある。今日はたまたま最後の一撃を放ったのが自分だったけれど、次は違うかもしれない。その時、その人が独り占めしてしまったら今度は自分が飢えることになる。お互いさまなのだ。

血縁によって営まれる集落が多数だったとは思うが、個よりも共同体。そんな人の営みがあった時代だったのではないか。

 

どちらが上とか下とかいう意識はなかった

他者と自分を区別しない、という感覚は人間同士にだけ適用されたわけではない。

縄文人はすべてのものに命が宿ると考えていたとされる。これは、縄文人に限らず、世界中の狩猟採集民に多い世界観である。人間も動物も植物も、果ては土器だろうが石器だろうが、すべてのものに命が宿っていると考えた。だから彼らは、土器や石器が持つ「道具としての役割(命)」が終わったとき、それらに感謝の意を込めて廃棄の祭りをしたとも言われる。

貝塚はその一例と言っていい。以前は縄文人たちが食べた物を捨てた「単なるゴミ捨て場」だと考えられてきた。しかし、よくよく貝塚を観察してみると、食べ物のカスは当然ながら、縄文人骨もあれば縄文犬の骨もあるし、割れた土器もあれば土偶もある。さまざまなモノが渾然一体となって貝塚を構成していることがわかってきた。

ということは、貝塚というのはただのゴミ捨て場ではなく、命がついえたものの、送りの場(天に命を送り返す場所)だったのではないかと見解が変わってきている。

冒頭で、縄文人たちの仕事には今の私たちが思うほど、男女の区別が明確にはなかったのではないかと書いた。身体的に能力が違うという点で男女の仕事の区分はあったと思うが、それ以外の感覚として、どちらかの存在が劣っているとか上とか下とかという意識などみじんもなく、彼らが生きる世界では、男女はもちろんのこと、すべての存在が同じ命あるものとして等しくあったのではないだろうか。

 

現代は人間中心主義と言われて久しい。

すべての生き物の頂点に人間が君臨し、自然は人間が支配するものだという考え方がある。宗教観の違いか、国の成り立ちの違いか、はっきりしたことは言えないが西洋ではこうした考え方をする人が多いと聞く。

それに対して日本人は自然を支配するというよりは、「できれば共存したいよね」という考え方を持っている人が多い。これは縄文時代の世界観を現代風にアレンジしながら日本人の中に根付いた価値観と言える。

 

自己顕示欲の肥大化は自分自身を苦しめる

しょせん人間である。自然を支配することなどできないし、そもそもそんな考え方は傲慢の極みといえまいか。天災が起こるたびに人間のちっぽけさを痛感してきたではないか。

縄文人も容赦なく起こる天災とともにずっと生きてきた。人間も自然も命のあり方として同じだから、誰が世界を支配するかなんて考えていなかっただろう。支配しているとすれば、それは見えない存在(超自然的存在)だけであり、それ以外のものはみな同じ。死ねば動物も人間も同じように骨になって土地に還っていくだけの存在なのだ。

今を生きる私たちが、ソックリそのまま縄文人たちの世界観を取り入れることは難しい。そもそも生きている環境も違うのだから、無理はない。

しかし中には「個」を強調することを強制される社会に、息苦しさを感じる人もいるだろう。行き過ぎた個の主張合戦に疲れている人もいるかもしれない。そもそも「個」を主張することを要求され出したのは、ここ最近の話である。自己顕示欲の肥大化は結局自分自身を苦しめるだけだ。言ってしまえば、そもそも一人ひとり違う人間なのだから、主張しなくても「個」は確立されていて、そのままの自分でも十分「個性的」なのである。

だから、「ほかの人とは違う自分」をあからさまに追い求めず、「お互いさま」の精神で生きていくほうが、結果として、強くてしなやかな個人、そして共同体を継続できるのではないだろうか。

 

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