2022年08月20日
縄文時代はどのようにして集団が統合されていたのか①
近年、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産に登録されたりと、世の中的に縄文文化が注目されているようです。
本ブログでも、前回から縄文を題材に追求テーマを発掘していますが、今回はその中で、
●縄文人の精霊感とは?
⇒原始集団の集団統合って?縄文にリーダーはいたのか?
について掘り下げてみたいと思います。
現代社会と当時で集団構造はどう違ったのか?1万年以上も続いた社会性から、我々は何を学び取ることができるでしょうか。
まず、ムラなど何かしらの共同体集落を形成していたとしたら、集団を構成する上で役割のようなものがあったのでしょうか。
そのヒントとなりそうなものの一つとして、日本の民俗学者である高群逸枝さんが原始時代の族制(血縁関係に基づいて集団が形成される家族・氏族などの制度)について記述している内容を見てみます。
>原始時代の族制は、いわゆる類別組織で、性別と年齢階級が基本となっている。「我」を中心として直系親から傍系親へ、近親から遠親へ叙述していく等親的な個別組織の後代の族制とは対照的である。
(中略)
第一図原初型では、性別と年齢階級だけの簡単な族組織がみられる。性別のイモとセには、長幼の意味はない。単に族内婚の意味―つまり後の言葉でいえば兄弟姉妹で同時に夫婦であるという意味だけである。これがこの段階の族組織の主体であって、それと幼児のコから成年男子をチ、同女子をハと呼んだろう。どちらも族の長老の意味にもなった。
(高群逸枝「日本婚姻史」より)
ここで見られるように、大人の男女そのものが集団の主体であり後世を導く長老でもあったということは、特定の人物のみが集団を導いていた構造ではなかった?ということでしょうか。
また高群さんは、当時の群(集団)は、孤立的で、洞窟や竪穴式・平地式住居に住み、「共食共婚」であったろうと述べています。つまり、おなじ火を囲み、おなじ性をわけあっていた、同族・連帯的で、群のみんながフラットな関係性だったのではと伺うことができます。
同じく、日本の旧石器時代から縄文時代を研究している考古学者の岡村道雄さんの記事から引用します。
>階級が上の“ボス”ではなく、各種の協業ごとに“リーダー”的な人はいたと思います。リーダーがいなければ成し遂げられなかったような事業の痕跡も残されていますし、埋葬されていた人物の副葬品からは、例えば弓矢をそなえられた狩りのリーダーや、マダイの頭や亀の甲羅で作った装身具を持った漁の名手などが推測できます。
>ただ、それは弥生時代以降に見られる、特定の原料・設備・技術などを独占し、直接生産にかかわらないような“ボス”ではなかったと思います。縄文時代には、個々の能力差、得意分野の『違い』は存在していましたが、取り分の大小が決まるような『階級』はおそらくなかったはずです。理由はいくつかあります。たとえば集落内に、溝や塀などで区画されたり、特別な場所を占有したりする居住跡がないこと。特別な構造や規模の施設、財産を副葬した大きな墓などがないこと。みんなにほとんど差のない土坑墓が用意されていたことなどが挙げられます。
>縄文時代の人類は、どうしてそのような組織を実現できたのでしょうか?それは縄文人が、努力=物質的対価、経済的対価というような思想ではなかったからだと思います。彼らは常に自然の摂理のなかに生きていて、自分たちは自然の恵みによって生かされているという考え方を持っていたのです。
「縄文時代、社長も上司もいないのに組織が成立していたってホント? 考古学者と組織の起源をさかのぼってみた」
ここでもまた、特定のリーダーはいなかったという説が述べられています。誰か一人がトップダウン式に統合するのではなく、皆それぞれが得意な仕事を役割に、真似し真似されて集団が維持され、技術が継承されてきたということでしょうか。
ちなみに、古くから集団の精神的な道標としての役割を持っていたとされるシャーマンは、縄文晩期から弥生以降、急速な寒冷化に伴う厳しい外圧に晒された人々が、集団の中で最も同化能力の高かった女性を集団の中心に据えて導きにし、縄文時代にはまだいなかったと考えられています。
では、リーダーらしき役割がいなかったとするならば、何をもって集団は統合されていたのでしょうか。
- posted by matu-kei at : 2022年08月20日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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