RANKING
にほんブログ村 歴史ブログへ
NEW ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK

2022年08月21日

縄文時代はどのようにして集団が統合されていたのか?②

(画像はコチラからお借りしました)

 

 

前回のブログでは、縄文時代には現代に見られるようなリーダーとしての役割存在はいなかったのではないか?について扱ってきました。

今回も引き続き、同じテーマについて深めていきたいと思います。

 

役割があったかどうかの視点に続き、縄文時代の集落における生活の様子から何か抽出できるポイントがあるでしょうか。

 

前回引用した岡村さんの記事の別の記述を見てみます。


>旧石器時代に遊動生活をしていた人間たちは、地球環境の変化にともなって、次第に定住生活へと移行し、縄文時代のころには数多くの村が生まれました。縄文時代のモデル村、通常の村の形は円形、環状の村です。

集落の真ん中には広場があり、その中心には墓地がありました。広場を囲むようにして、縄文人の住処である竪穴住居が配置され、そのさらに外側にゴミ捨て場や、食べ物を貯蔵する穴がつくられていたんです。

縄文時代の墓地というのは、共同体における精神的な拠りどころだったんです。

縄文人の生活が現代人の生活と違って特徴的なのは、霊的な存在を共同体の中心に据えつつも、ムラとして組織化された実社会のなかでは、中心となるようなボスや偶像を置かなかったという点です。

共同体の真ん中に権力を置かないことで、みんなが等距離にある状態をあえてつくりだしていたと考えられます。心理学的にいうと『中空の原理』ですね。


 

にほんブログ村 歴史ブログへ

 

ここで着目したいのが、縄文時代の集落の形態というのは、例えば城下町のように集団のリーダーを中心に据えた構成ではなく、集団にとって大切な、精神的な存在を中心に各居住スペースが囲っているということです。(上イメージ)

 

中心となる広場で共婚や埋葬などを行っていたとすると、縄文時代の集団においては、婚姻、出生、埋葬が集団を統合する一大イベントとしての精神性を持っていたのでしょう。

 

* * *

 

上記の内容に加え、前回記事でのリーダー的存在がいなかったということから、縄文時代は現代のように、人(リーダー)が集団の統合軸ではなく、生死など自然の摂理そのものが統合軸であったと考えられます。

 

憶測ですが、人類が始原時代に獲得した、万物との一体化⇒本質・秩序化へと追求を深めていくなかで、集団にとっての秩序そのもの(成員の生死)を中心に据えた共同体を構成していったのではないでしょうか。

(過去記事:万物との一体化回路によって道具はどのように変化してきたのか?②参照)

 

ちなみに、現代のようなリーダーはいつ頃から生まれたのでしょうか。一般的には弥生以降、大陸から稲作文化などが流入し、人手の確保や土地の占有による管理上の必要性、上下関係や貧富の差が生まれたことで、私権管理上、統率者としてのリーダーが生まれたとされています。

つまり、力の原理(序列圧力)が働くようになってから・人類同士で争いが生まれるようになってから、現代まで同じ集団構造を引き継いでいるということです。

 

皆さんは、自然の摂理を統合軸に皆で助け合っていく集団力の原理によって統合される集団と、それぞれどのように可能性を感じますか?

 

 

> List 

trackbacks

trackbackURL:

comment form
comment form