2012年12月01日
宗教からみた男女関係 ~「仏教」2日本仏教の特異性
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四天王寺(593年)に造立が開始されている。日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」
第2回仏教シリーズ、前回は仏教の成立過程ついて追及しましたが、今回は日本の仏教に焦点を当てて追求していきたいと思います
日本仏教には様々な宗派が存在しますが、最も信徒数が多い宗派はどこがご存知ですか???
正解は南無妙法蓮華経の『日蓮宗』で1,722万人です。ちなみに最も寺院数が多いのは南無阿弥陀仏の『浄土真宗』で20,927です(信徒数は1,273万人)。(信徒数1位の日蓮宗は6,937)参考:現代日本の仏教より
みなさんはご存知でしたか?
身近にあるようで実は私たち自身が一番分かっていないのが『日本仏教』ではないでしょうか。
前回の宗教からみた男女関係 ~「仏教」①インド仏教の成立から衰退まででは、成立当初の「原始仏教」を扱いましたが、私たちが普段触れている「日本仏教」と随分異なっているのを感じて頂けたかと思います。そこで今回は具体的にどこが違うのか?そしてどうして日本の仏教は世界の仏教とは違ってしまったのか?日本仏教の特異性を追求していきます 😀
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まずは、具体的にどこが違うのか?日本の仏教がいかに日本独特の文化であるか?を見ていきたいと思います。参考:不思議がいっぱい、日本仏教の謎解き講座より
■日本の仏教は実は独特である
まず、これほどたくさんの寺や仏像があるにも関わらず、日本には、真の意味での仏教徒があまりいません。それに対してタイやスリランカなどでは、仏教は国教に近い存在で、国民のほとんどが仏教徒です。また、韓国では、まず生活習慣としての儒教があり、それ以外に、「わたしはキリスト教徒なので教会に行きます」とか「自分は仏教徒なので寺にお参りします」という形で、各人が(または各家庭が)個別の宗教を持っています。
しかし、日本では、あなたの宗教は何ですかと問われれば、多くの人が「わたしは無宗教です」と答えます。にもかかわらず、日本人の多くは家ごとに菩提寺を持ち、お葬式はその寺のお坊さんが執り行い、先祖代々の墓地もその寺にあるのが基本です。ほとんどの人がどこかの寺に属しているのに、「自分は仏教徒ではない」と考えるのは、他の国の人から見れば不可解なことでしょう。
■日本のお坊さんは妻帯をする!
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日本に仏教を伝えたのは朝鮮人ですから、両国の寺や仏教のあり方はよく似ているはずです。しかし、実際は全く違う面もたくさんあります。見た目の違いも数々ありますが、もっとも大きな違いは、韓国のお坊さんは妻帯をしないということです。
日本のお坊さんは、妻帯もし、肉も食べて、比較的一般人に近い生活をしている人が多いようですが、仏教の基本に立ち返れば、出家して僧となった人は、仏教の戒律に従って妻帯も肉食もしないはず。つまり日本の僧侶のあり方は、他の国から見れば、かなり特異なものです。日本の多くの寺では、住職は世襲です。しかし、僧侶が妻帯をしない国では、当然ながら子供もいないので、世襲はあり得ません。僧侶は自分の意思で普通の生活を捨て、僧侶になることを選ぶのです。
■檀家制度も日本独特のものである
檀家制度とは、ある家族が先祖代々ひとつの寺に属し、葬儀や法事などの一切をその寺に任せることです。これは江戸時代初期に幕府や諸大名たちによって制定された制度です。それ以前にも、貴族や有力な武家などが氏寺を作ることはよくありましたが、庶民が檀家となって寺に属することが一般的になったのは、17世紀の中ごろからです。
なぜこの制度が生まれたか。それは、隠れキリシタンを撲滅するためです。住民は寺に所属し、生き死にに関するすべてを寺に任せ、折りあるごとに寄進をします。その引き換えに、寺は、その人物が檀家であり、隠れキリシタンでないことを証明します。それほどに、幕府はキリスト教が広まることを恐れていたのです。
寺は法事や葬式だけでなく、檀家の人々の戸籍を預かり、結婚や転居の手続きもしました。要するに、江戸時代以降の日本の寺は多くが役所のようなもので、その風習の一部である葬式や法事が今でも続いているため、 日本の仏教は、時に「葬式仏教」と揶揄されるようにもなったのです。
現在の日本仏教からすれば、当り前に思っていた坊主の妻帯や檀家制度も実は日本文化独特のものだったのです。
ではなぜ仏教が独特になってしまったのか?「葬式仏教」とは何を意味するのでしょうか?続いてはなぜ日本の仏教が独特のものなってしまったのか?を見ていきたいと思います。
■仏教は日本に土着して独特の形に変化した
「葬式仏教」は、ある面では形骸化した現在の日本の仏教に対する悪口であり、的確にその性質を表現してもいます。が、その一方で、 日本人の生活や物の考え方には仏教的な要素が根強く残っていますし、伝来以来の長い歴史の中で変化していったからこそ、独特の優れた文化を作り出したとも言えるのです。
仏教が作り出した文化は数え切れないほどあります。洗練された寺院建築、多種多様な仏像、世界的にも評価の高い日本庭園、日本人の美意識の結晶である茶道とその周辺の文化など、枚挙にいとまがありません。また、江戸時代以降、一般民の間に仏教が浸透して寺が一種のレジャーセンターの役割も担うようになり、縁日の見世物や門前の団子屋と言った楽しい庶民文化も生まれました。が、それらはほとんどが、お釈迦様が生み出したもともとの仏教とは似ても似つきません。そもそもお釈迦様は、「この世は苦ばかり。現実的な欲を捨てて解脱せよ」と解いたはずなのに、日本においては、商売繁盛、縁結びなど、実に現実的なご利益があるとされる仏様やお寺もたくさんあります。日本仏教は、どのような歴史を経て、こんなに多様で、ある面では何でもありなフトコロの深い宗教に変化したのでしょう。
■はじめに神道という独自の宗教があった
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若一王子神社は神仏習合の形を残した神社であり、鳥居の横に三重塔が建っている。
日本には、仏教伝来以前から神道という独自の宗教がありました。これは、自然界に存在するもののすべてに神が宿るとし、自然そのものを受け入れる寛容な宗教です。そのため、外来の異文化である 仏教も、わりあい簡単に受け入れることができたと思われます。
6世紀のはじめごろ仏教が伝来し、次第に国の中心的な宗教となっていったのですが、そうなるには、さすがに多少の軋轢がありました。当時、神道の祭祀を牛耳っていたのは豪族の物部氏で、 仏教を積極的に取り入れようという立場の蘇我氏と対立。蘇我氏の血を引く廐戸皇子(後の聖徳太子)も参加して戦い、物部氏は滅ぼされます。その後聖徳太子はたくさんの寺を建て、仏教が政治と学問の中心として広まって行きました。
■仏教と神道は合体して発展した
世界の歴史を見ると、異なる宗教同士がお互いに相容れることは、あまりありません。地域によっては、宗教の違いが今もって紛争の原因になったりもしていますが、その後の日本で、神道と仏教はうまい具合に融合し、「神仏習合」という独自の形を作り出しました。実は日本の仏教は、江戸時代までは、この神仏習合が基本だったのです。
神仏習合は、読んで字のごとく神と仏が習合したもので、奈良時代にはすでに、その形がはっきりと現れるようになります。たとえば東大寺の大仏を作る際には、八幡神(全国にある八幡宮という神社に祀られる神様)が助力したとされ、現在でも東大寺境内には、手向山八幡宮があります。薬師寺にも休岡八幡宮があります。現在は別のものとして認識されている興福寺と春日大社も、もともとは同じものでした。
現代からすれば、神社とお寺は全く違うもののように感じますが、実はそれは間違いで、日本においては、長いこと、神社も寺も区別のないものとされてきたのです。そのようになったのは、日本にもともとあった神道が、特定の開祖も教義もないという事と、縄文人気質によるところが大きいと思います。そして仏教自体にも他に対する攻撃的な要素があまり無かった為と思われます。これは世界でも希に見る、異なる宗教同士の平和的な融合です。
■神社の形も仏教の影響を受けている
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大神神社の拝殿。古い形の神社には、ご神体を奉る建物はなく、参拝者は、この背後にある三輪山を拝んでいる。
仏教は神社のあり方にも、大きな影響を与えました。そもそも、仏教伝来以前の神道においては、神様は自然界のあらゆるものに宿っているため、ご神体も山や岩で、今の神社で見かけるような本殿(ご神体を祀る建物)はありませんでした。たとえば、奈良、山の辺の道にある大神神社などは、現在でも背後にある三輪山自体をご神体としているため、拝殿はあっても本殿はなく、三輪山を拝む形になっています。
神社の中に本殿を建てるのが一般的になったのは、仏教のお寺には建物があって、その中に信仰の対象である仏像が祀られていたためです。神道には偶像崇拝的な要素はありませんでしたが、やはり何か祈る対象があったほうがわかりやすいと思った為か、やがて、人間の姿をした神の像、すなわち神像というものも造られるようになりました。
■時代ごとに変わっていく日本の仏教
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歴史的に見て、日本の仏教には、「奈良仏教」、「平安仏教」、「鎌倉仏教」の三つがあります。
まず、飛鳥時代に百済人が日本に仏教を伝えます。その後、遣唐使などの活躍や、鑑真和上の来日などもあって、学問としての仏教が広まります。が、それはあくまで支配者階級のものであり、僧侶が政治に介入して腐敗を招いたこともあって、奈良仏教が平安時代まで続くことはありませんでした。
平安時代には、新たな時代の幕開けにふさわしい新しい形の仏教が導入されました。最澄が伝えた天台宗と、空海が伝えた真言宗です。真言宗は、中国に伝来していた密教(仏教にヒンズー教的な要素を加えたもの)を空海が学び、忠実に伝えたものです。天台宗は、当初、密教的ではありませんでしたが、その後その要素も加わりました。
鎌倉時代は、武士が勃興した時代です。天台宗の本山である比叡山延暦寺で修行をした栄西や道元が中国に渡り、臨済宗、曹洞宗の禅宗系宗派を伝えました。禅宗は、質実剛健な性質から、武士階級に人気がありました。同じく比叡山で修行した日蓮は、日蓮宗を開きました。これは、当時力を蓄えつつあった京都の町衆や芸術家などに人気がありました。やはり比叡山で修行した法然が浄土宗を、親鸞がその発展形である浄土真宗を開きました。これは、わかりやすくて戒律も厳しくなかったため、一般庶民に人気がありました。
■日本の僧侶は、なぜ妻帯をするのか
ここで最初に立ち返り、日本の僧侶がなぜ妻帯をし、肉食をするかについて考察します。 日本で最初に妻帯をした僧侶は、浄土真宗を開いた親鸞です。これは、あくまで正式に妻を迎えたということで、それ以前にも、隠し妻を持つ僧侶はいくらでもいたそうです。
僧侶が女性と交わることは、むろん厳禁でしたが、それを守れる人は少ない。つまり、人はどれだけ修行をしても、煩悩から逃れることができない。ならば、裏でこそこそやるのではなく、世の中に対して、正式に妻帯したと宣言するほうが潔い。それに対する非難は甘んじて受けよう。そういう考え方だったのでしょう。
そもそもは、「一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や、世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である」と、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子をもうけたことに由来する。そのため、真宗には血縁関係による血脈と、師弟関係による法脈の2つの系譜が存在する。与えられる名前も戒名ではなく、法名と言う。Wikipedia(浄土真宗)
■まとめ
今回は日本人が普段触れている日本仏教の特異性とその理由について追求しました。
原始仏教が現実を否定し観念上で充足する為の道具であるのに対して、共同体を色濃く残し日常的に充足している日本人にとっては、現実を否定し宗教(観念)による救い期待を必要としていないので、大陸からの宗教が合わないのは当然です。
このように共同体規範からの共認充足に入り込む隙がない中で、縄文人の「受け入れ体質」と「自然信仰」に祖先崇拝や生死感、他者への想いを塗り重ねて(神仏習合)仏教的色彩を施していったものが「葬式仏教」であり、逆に言えば、そこにしか宗教の入り込む隙がなかったというのが事の本質だと思われます。
次回は、仏教における『男女の性』について追求していきたいと思います
- posted by miyashow at : 2012年12月01日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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