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2008年11月20日

中山太郎の「日本婚姻史」から~共同婚~

以前に投稿してから、2年近くたってしまいましたが、中山太郎の「日本婚姻史」を再度読み始めました。図書館でその都度借りるのは大変なので、思い切って (約6000円!)古本屋さんで購入しました。福岡の古本屋さん からはるばる大阪までやってきてくれましたので、中身を要約して少しずつご紹介したいと思います。
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さて、この本の特色は、何と言っても書かれた時代がかなり古いことと、事例が豊富に掲載されていることです。旧仮名遣いのため、読むのは大変ですが、読み始めると興味深くてどんどん時間がたってしまいます。
では、改めて冒頭の「総説」を要約してご紹介します。

総説
婚姻は、形式から見ると、共同婚期→掠奪婚期→売買婚期→契約婚期と進化してきた。
実質から見ると、同族婚、異族婚、定期婚、試験婚、労働婚、一妻多夫婚、婿取婚、嫁入婚、逆縁婚、同胞逐次婚などに分かれる。
さらに、呪的保護、法的保護、招婿婚、聘嫁婚の四期に分類することもできるが、この新しい分類は本書では割愛する。

きいたことのない婚姻制の区分もありますが、このブログの読者の皆さまなら、何となくイメージはできることと思います。
では、以前の投稿とかぶる部分もありますが、ご紹介します

第一章 共同婚
共同婚=乱婚・雑婚=女子共有の時代。学者たちはこれを否定・黙殺しているが、古事記・日本書紀にも書かれている事実である。我国の太古には、この共同婚制が存していたと考える。
第一節 共同婚を偲ばせる二三の古語
とつぐ、まく、くなぐといふ古語の内容
「とつぐ、まく、くなぐ」は、本来はいずれも婚姻=交合の意味である。これらの言葉を使った古代人にとっては、交合=婚姻であり、交合を「見る」「逢う」「よばう」と言うようになったのは、婚姻に式礼を加えるようになった次の時代である。
古代は、肉の結合が直ちに婚姻の総てであった。
ヨメといふ語の内容とその分化
「ヨメ」は、もともとは広く一般の若い女性を指していた。それは即ち女子共有の時代であり、兄と弟に共通に「ヨメ」という言葉が用いられた時代は、兄の妻は同時に弟の妻であること=一妻多夫時代であると言える。
戸籍から見ても、「ツマ」と「ヨメ」はほぼ同じ意味で使われている。
ヲジヲバの古義と小父小母への過程
「オジ」「オバ」という言葉は、古くは敬愛の意味に用いられていたが、社会組織の変化につれて、第二の父母という意味になった。これは、村or部落単位の男女の群婚→兄弟で一婦を妻とする時代の変化を表している。
メトリとヲトリの婚制上の意義
「メトリ=女取り=娶」は、男の腕力を持って行われ、他の理由と相俟って掠奪婚となった。女はそれに対抗して、容姿と嬌態で選択されようとした。それが「男とり」=「踊り」であり、踊りによって男子の選択を自分の有利なように導いた。
我国の踊りが性的所作の模倣及び誇張に出発していることは、天磐戸の前のウズメの話からも明確である。嬥会や歌垣~盆踊りまで、その目的は婚姻の予備行為である。
ネルと云ふ古語の内容
ネル=交合であった。横になることは、ネルではなく、フス・コヤルと言った。古代人はネル所とフス所を厳重に区別していた。この言葉の使い方は、共同婚期だからこそ。

普段何気なく使っている言葉にも、古代はさらに細かい区別・意味があり、そこからその時代の人間関係・男女関係が分かるというのが興味深いですね。
引き続き、事例のたくさんある第二節をご紹介します。

第二節 共同婚の遺俗としての嬥会(かがい)
『常陸風土記』に現れた嬥会は、共同婚の遺風として認められる。『他妻に吾も交らむ、吾妻に他も言問ひ』とある。そこに参加した女は、「嫂財」として「貞操を提供する義務が負わされた」のである。
嬥会は、国初時代に入ると、歌垣として各地で行われるようになり、この系統の結婚方法は、明治初期まで行われていた。
土佐国西豊永村:毎年七月六日の例祭には、近隣から数千の男女が集まり参詣。夜になると男女で押し問答し、女が答えられぬようになると、男の意に従うことになっている。
三河国の山中村:毎年春に未婚の男女が盛装して山行を行い、夫婦の約束をすれば、父系は必ずこれを承認せねばならない。婚約の出来なかった女は笑いものになるので、近頃では山行の前に内約させたり、他村の青年を養子として必ず婚約できるように仕向けたりしている。
美濃国東村:三日間行われる秋祭りで、村中の若者が鎮守の森に集まって輪になって踊り続け、夜が更けると村長・村会議員・青年会長なども交じって、踊りながら共鳴した男女が交わる。「此の奇習によって生れる幾多の喜悲劇は、総て神の裁きとして解決され、且つこの踊りが縁となって結ばれた男女は、氏神の許した夫婦として、村人から羨望される」
紀伊国白崎村:「旧暦の盆踊の最中に双思の男女は婚約するのを習いとしている。此の約束が出来ると後で他家からその女を貰いに来ても、身代や身分がどうあろうとも盆踊で約束したと断り、一方、断られた者も盆踊で約束した中では言うて引き退がるのを常としている。」

この種の土俗が結婚の礼式となって存在する例を、次に挙げる。
下野国の宇都宮市を中心とした村落:「新婦の一行が乗りかけ馬で新郎の家の前まで来ると、門前に二人の男が立っていて『大勢して一体どこから来た』と問う。新婦の方では『若者に美しい花をやるために来た』と答える。かくて両者の間に押問答が始まるのであるが、先ず嫁方から口達者な一人の女が出て、婿方の男二人を相手に問答し合う。若し此の問答に嫁方が負けると、馬は元へ引き返してしまう。実に念の入ったものであるが今では稀にしか行なわれぬようになった。」
信州木曾山中の婚礼:花嫁が婿の家に往く道すがら、おこしを撒き散らしながら行く。媒酌人は、顔一面に墨を塗って婚礼の席に出る。「嫁婿の座が定まると嫁は携えてきた小豆一升を入れた麻袋を取り出し、婿へ投げつけながら『わりゃ(私)、うね(郎)を頼りに来たぞ』と言うと、婿は『オウ石の土臺の腐るまで居ろよ』と答え、此の問答が済んでから盃事になるのである。」
これらは、嬥会系に属する掛け歌の形式化・単純化されたものであると推知される。
以上の例から推測して、嬥会が共同婚に根ざし、それが多少緩和された土俗であることは明白であり、反言すれば、嬥会の土俗は突如として我国に発生したのではなく、前進たる共同婚の遺俗を相続したものと考えられる。そうでなければ、殆ど乱婚に等しいこれら多くの土俗が、各地に残存したことの理由が明確を欠くからである。

現代人の視点からするとびっくり の風習がたくさんありますね。いずれも、
ある集団内で、みんなが認める(婚姻)制度であること。
みんなが認める制度だからこそ、守らない場合には制裁があること。
「制度」でありながらも、性とその過程を楽しむ要素が入っていること。
が共通点ですね。
そして、筆者は「女が貞操を提供しなければならない」というマイナスの規範のように書いていますが、これだけ各地で長く(つい数十年前まで)残っていたということは、この規範が集団内の充足規範 としてみなに認められ、かつ有効であったことの証だと思います。
ではでは、長くなってしまったので、続きはまたの機会に

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comments

近くにいて頻繁に会うのに、いっしょには住まないって、ずいぶんドライな関係ですね。。
伝統的にそんな暮らしであったということではないと思われるので、何を契機にそんなふうになったのか興味津々です。

  • まりも☆
  • 2009年2月17日 21:41

徹底した個人主義ですね。血縁関係に重きを置く私達日本人とはまったく別の感覚を持っているのでしょうね。
たしかに、まりもさんが仰るように、なんでそんなふうになったのか?は知りたいところです。
ところで、映画「かもめ食堂」では、かもめ食堂を最初に覗いていたのはおばあさん3人組だったような気がします。
日本映画なら、変わったものには子供が興味を示す描写が一般的と思いますが、そこがフィンランドなのかなぁ。

  • hayabusa
  • 2009年2月17日 23:04

まりも☆さん、コメントありがとうございます♪
「頻繁に会うのに一緒に住まない」って、会社と社員みたいですよね。プライベートは別、と言っているみたいでさみしい気がするのですが、フィンランドでは当たり前なのでしょうね。

  • yukie
  • 2009年2月18日 12:31

hayabusaさん、コメントありがとうございます♪
「かもめ食堂」は残念ながら見たこと無いですが、フィンランドについて調べていると、老後こそもっとも好き勝手できる年代なのかも…と思います。(税金もとられないよね?)

  • yukie
  • 2009年2月18日 12:33

共同体社会と人類婚姻史 | フィンランドの『家族』と個人主義

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