2009年09月11日
人口から読む日本の歴史2 第二の波
人口から読む日本の歴史1 第一の波に続いて、第二の波。弥生時代から始まる人口増加についてです。鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』より。
第二の波
紀元前3世紀頃から稲作農耕の受容とそれに基づく国家形成へと転換した。人口は急速に増加しはじめ、第二の人口循環が始まった。人口成長は千年ほど続いた後、8世紀を過ぎるころから成長を鈍化させて、11世紀以後になると停滞した。
地域別人口表とグラフ参照。
応援よろしく by岡
人口規模はもっぱら環境によって決定されていた縄文時代に対して、弥生時代以後の農耕社会では、生存資料は与えられた環境のもとで人間が生産するものであった。新しい要素として耕地と技術・知識がつけ加わって、人口と自然環境との関係は迂回的となったのである。
稲作の導入は二つの側面から人口を増大させた。一つは稲作の高生産力、そしてもう一つは水田稲作が多くの労働力投入を必要としたことである。弥生時代中期以降、沖積平野へ進出し灌漑施設を備えるようになると、いっそう人口増加が促進されることになった。弥生時代の人口密度は1平方キロメートルあたり2.06人と縄文中期の2倍半に高まった。
自然条件の変化も稲作農耕の定着と人口増加に寄与した。縄文晩期にあたる2500年前頃の年平均気温は、現在より1度低い水準にあったが、その頃を底として上昇に転じた。弥生時代後期になると気温は再び低下し、4世紀から7世紀にかけて、「古墳寒冷期」と呼ばれる低温期が訪れる。ところが奈良時代に入ると、一転して気温上昇が始まり、9・10世紀の小温暖期を経て、11・12世紀は温暖乾燥の極に達した。温暖化のピークには、寒冷期よりも3度以上も気温は上昇したと推定されている。
200年から1980年までの北半球での気温の偏差(基準:1961-1990年) 原資料の出典
グラフは、永井俊哉氏の気候と文明からお借りしました。
人口成長の限界
めざましい人口増加は8世紀を過ぎてその成長率を落とし、10世紀以降は停滞期となって、人口の第二の循環は終熄の局面に移ったようである。人口成長の限界は次の4つの要因によってもたらされた。
第一は、当時の技術体系のもとで可能な耕地拡大と土地生産性の上昇が望めなくなったのではないかという点。近畿地方を中心とする先進地帯の水田は、12世紀までに相当程度拓かれており、耕作拡大は壁に突当っていた。ただし東北などのフロンティアでは開発余地が広く残されていたから、この壁を強調しすぎてはならない。
第二は気候悪化の影響である。この場合は冷害ではなく旱害が問題になる。12世紀における乾燥化の影響は度重なる旱害となって現れた。その極点が1181年の日照りによる大飢饉であった。鴨長明は『方丈記』の中で、飢渇と疫病が猛威をふるう京の町なかに乞食があふれ、打ち捨てられた屍が累々と道をうめるというこのときの悲惨な状況を描いている。
旱害の打撃は西日本を中心に大きかった。10世紀から12世紀への人口増加が、東日本では10%ちかい増加であったのに対し、西日本ではわずかに2%でしかなかったのはそのためであろう。この世紀の末期に平家が倒れ、東国に源氏が政権をうち樹てることができたのも、このような自然史との脈絡において考える必要がある。
第三の要因は疫病である。ファリスは8世紀初期の人口増加に歯止めをかけたのは、735年から737年にかけて発生した天然痘であったと指摘している。この天平の疫病は北九州の大宰府で最初に記録され、人的被害は地域によっては50~60%、全国でも25~30%であったと推計している。
最後に、しかし最も重要な要因として社会体制の変質がある。公地公民制は早くも9世紀には動揺しはじめ、10・11世紀には解体した。代わって出現したのは荘園・公領制であった。土地の私有化は、初期には原野の開墾を促す要因となったが、次第にマイナスの作用を及ぼすようになっていった。律令制的土地制度の崩壊は、高度な技術と大量の労働力を駆使して大河川流域の平野を開拓し、排水・灌漑施設を維持することを困難にした。それだけに止まらず、条里型水田の維持すら困難になる場合もあって、「不堪佃田(フカンデンデン)」と呼ばれる荒廃田が増加した。
渡来人
弥生時代以降の人口増加には、稲をもたらした渡来人に支えられた増加もあった。
(1)2200年くらい前に稲をもち北九州に定着した越人の集団、(2)1800年前に漢の支配から逃れてきた人々、(3)4世紀に高句麗経由で入り後に朝廷を築いたとされる騎馬民族の大きな移動の波、(4)5世紀後半から6世紀における朝鮮からの多数の技術者の渡来、(5)7世紀における百済からの大量移住などが主なものであろう。
弥生時代の人口革命
農耕化は人類が経験した第一のエネルギー革命である。これによって人口は着実に増加することができた。しかしながら、そのメカニズムに関しては不明確な部分が多い。
出土人骨から生命表を作成した小林和正は、弥生時代の15歳時平均余命を30年前後、古墳時代には同じく31~35年と計算している。縄文時代人と比べると2倍に伸びているから、弥生時代以降成人の死亡率は改善されたといってよいだろう。
もっとも、小林の生命表に基づいて出生時余命(寿命)を推計した菱沼従尹は、縄文時代の水準(15年程度)と変わらないと結論している。この意見に従うなら、農耕化によっても乳幼児死亡率は改善されなかったことになる。
しかし稲作の人口支持力が大きかったこと、縄文時代以来の野生食糧資源の利用が19世紀になっても放棄されなかったことを考え合わせると、大陸から日本列島への波状的な人口流入に加えて、弥生時代に人口革命の生起したことと、その際に死亡率低下の役割が無視できなかったことを認めてもよいように思われる。
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メカニズムが不明瞭ですっきりしない点がありますが、人口増加はさほど急激でなかったかもしれません。稲作農耕の占める比率がまだ低く、豊富かつ安定的に供給できていたわけではなかった可能性が考えられます。
- posted by okatti at : 2009年09月11日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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comments
チンパンジー(父系)→ 同類殺し
人類(父系)→ 戦争
共に過酷な外圧状況から父系集団へとシフトし、本能ではなく、共認内容によって、同類を殺すという行為を可能にしたということでしょうか?
ちなみに母系社会では同類殺しはないのですか?
こんにちは、マニマックさん。
縄張り闘争で相手を殺してしまう可能性があるとは思いますが、チンパンジーの同類殺しは、それとは明らかに違うようです。
違うテリトリのチンパンジーというだけで、10匹以上でよってたかって一匹を殴り殺してしまうということもあるようで、これは一種の見せつけでしょうか?ここも共認機能が関係していそうですね。
このような事例は他の動物には見られ無いようです。
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