2019年12月22日
赤ん坊=人類の言語の習得過程2
言語交流研究所(ヒッポファミリークラブ)の創設者が始めた言語習得方法(赤ちゃんの方法)を紹介します。
赤ん坊の言語の習得過程は、人類の言語の進化過程をなぞっているはずで、言語の進化過程を解明するヒントがあるように思います。
榊原陽『ことばはボクらの音楽だ』(初版は1985年)の11章中2~3章の要約。
【2】ことばは美しい秩序系
5歳くらいで外国に移住した時でも、友達と仲良く遊べば、半年も立てば言葉を話せるようになる。
言葉を自然習得する過程には、文法用語は出てこない。覚えた表現をノートに整理して書くこともない。子供たちは楽しく遊びながら、無計画にランダムに英語のツマミ食いをしているだけである。それだけで5歳くらいの子供なら、新しい言葉が半年で完成する。
5歳の子供が半年間でランダムに拾う言葉の総量は限定されたものだが、発音訓練もなしに、アメリカ人そっくりに話すようになり、文法の一つも知らないのに、文の基本的な誤りは犯さない。
5~6歳の子供なら、自然の言葉の環境さえあれば、身につけることができるだろうが、大人はそうはいかないのだろうか?
一般的に10歳前後に言語習得能力に質的変化があるかの如く言われるが、それは事実なのだろうか?
多言語国家であるインドやウガンダの大人は、2~3週間くらいで片言の日本語が話せるようになる。
幼児が言葉ができるようなる振舞い、5歳児が新しい言語環境であっと言う間に新しい言葉が話せるようになる振舞い、多言語人間が易々と言葉を次から次へとマスターする振舞い。
そういう言語の振舞いを一貫した美しい秩序として記述することが言語研究の目標であろう。
【3】私自身(榊原氏)の体験から
私が言葉の教育を始めた動機は常識的なもので、これから地球が狭くなるので、これからの子供たちはヨーロッパ語一つ、アジア語一つくらいはできたほうがいいだろうというものだった。
全くの素人だったが故に事実に学ぶより他に方法がなかった。はじめは常識的に英語を教えることから出発し、外国語教育に成果を上げているプログラムを探した。しかし、始めてみると、言葉を教えることがどんなに難しいことか思い知らされた。
例えば、英語の代名詞”he””she”。「彼」とか「彼女」とかいう表現は輸入語で、日本語の日常にはないのである。これを4~5歳の子供に教えようとするだけで大変だった。子供たちもだんだん苦痛になってきて、10人→5人→3人と減ってゆく。
そこで、外国語教育で常識とされている方法を忘れ、言葉について身近に知っている事実を踏まえて、一から構築し直してみようと考えた。
私が3~4歳の頃、父親が英語の絵本を読んでくれた。「”Once upon a time”昔むかし、”a man had a donkey.”ある男がロバを飼っていたよ」
それが2年ほど続いた頃には、いちいち翻訳してやらなくても、わからない所は聞くようになっていたという(父親の後日談)。
子供たちに物語を一文、一文、日本語と英語で聞かせてやろう。同時に聞こえてくる英語にも自然に触れてゆく。
その蓄積で英語を無意識に自分で見つけてゆくことができるのではないかと考えて、物語の日本語・英語による読み聞かせを始めた。
物語の活動が始まって3~4ヶ月経った時、『グルンパ』という英語の物語を日本語と英語で聞いているうちに、幼稚園の年長の男の子が英語だけで10分くらいの物語を話せるようになった。
階梯を踏んでゆく教科では、先の課程まで進んでいるグループに最初から始めることも入れるわけにはいかないが、日本語と英語で語られている物語で遊んでいるのであれば、ずいぶん前に入った子も、一週間前に入った子も一緒に遊べる。共通の日本語で物語の話題を楽しむことができるからである。グループ編成が同年齢構成から縦軸年齢グループに変った。
これまでの教える教科から、遊びながら言葉を見つける活動への方向転換に加えて、グループの縦軸年齢構成も相まって、子供たちがなんとなく、柔らかくふっくらと育ってゆくように見えた。
∵同年齢グループは誰が誰よりできるorできないと問題になる競争的グループ構成だが、縦軸年齢では上の子が下の子の面倒を見るといった役割分担グループになるからである。
※子供たちが自然な環境で言葉を習得してゆく過程は、単語の一つ一つを理解して、それを組み合わせて文を作るのではない。文の理解が先行する。例えば、子供が寂しい時に「アイムソーローンリィ」と言ったとしてもが、Ⅰもamもsoもlonelyの意味も解っていない。
※子供たちは二つの言葉が完全に話せるのに、ある年齢に達しないと、通訳することを拒否する。10歳くらいになって初めて、突如として通訳してくるようになる。これは多くの人が体験として知っている事実だが、学校の英語教育の中で、いつも日本語との対比で言葉を学ぶ経験しかなかった大人たちにとって、自然な言語環境で新しい言葉をそのものとして見につけてゆく子供の姿が見えなかったであろう。
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2019年12月22日
赤ん坊=人類の言語の習得過程1
言語交流研究所(ヒッポファミリークラブ)の創設者が始めた言語習得方法(赤ちゃんの方法)を紹介します。
赤ん坊の言葉の習得過程は、人類の言語の進化過程をなぞっているはずで、言語の進化過程を解明するヒントがあるように思います。
榊原陽『ことばはボクらの音楽だ』(初版は1985年)の1章の要約。
●著者略歴
1930年生。両親は教育者で豊かな学びの機会を与えるという恵まれた家庭環境。ところが、旧制中学卒業後、通常の進学の道を拒否し、学ぶことに対する境界や制限にとらわれず、知の探求に対して、自らの本能に従って思索を進めていった。
特定の研究機関や学問分野にこだわる必要がなかった彼は、赤ちゃんや幼児が、母語を習得する過程に深い考察を繰り返し、自らの目と耳を頼りながら、ことばを自然に獲得する過程について独自の考えを生み出した。
【前書き】
本書は多言語活動の体験を具体的に、また、その理論的大枠をできるだけ平明に述べることを目的とする。言葉が身近であるために当たり前のこととして見過ごしている事実の中に、重要な情報が含まれている。だから、誰でも知っている当たり前の事実から、言葉とは何か読者と一緒に考えようと思う。
【1】赤ちゃんの方法
赤ちゃんは自然科学者だ。取りまく全てのものが珍しく、好奇心に充ちた眼差しでひたすら何かを追い求めている。赤ちゃんと同じ道筋で、人類は言葉を見つけ、人間の言語世界を創り出してきた。自然の存在そのものである人間によって、自然の論理にしたがって創り出されたものが人間の言語である。その言葉を創り出す自然の論理とは、方法とは、どのようなものか。
人間は誰でもその言葉が話されている環境さえあれば、その言葉を習得できる。日本では日本語、韓国なら韓国語だが、3~4つの言葉が飛び交うルクセンブルクでは、誰でも例外なく、4つの言葉を同時に自然に話せるようになる。
表層的には全く似ても似つかぬ言葉であっても、その深層の秩序は普遍的であり、すばらしく平明な秩序を持っている。だから、幼児は何語であれ、環境さえあればその言葉を習得する。赤ちゃんにとっても何語であっても、自然言語である限り同じ人間の言葉なのである。
赤ちゃんは生まれたばかりの時は見えない。というのはまだ真っ暗な闇の世界の中にいるということだろう。それが、日に日に少ずつ光を感じ始め、明るさに目覚めてゆく。やがてその明るさの背後にぼんやりとした影のようなものが見えてくる。赤ちゃんはまだ焦点を合わせるということを知らないが、その影を追い始め、焦点を合わせるという目の体操を始める。
膨大な光の波の足し合わせで作られる波形を、目は形として認識し記憶する。音声言語も膨大な数の波の振動の足し合わせの束であり、それを音声認識する。音声認識も目の形認識も、複雑な波形の型認識である。幼児でも満一歳にもならないうちに、母親の音声を聞き分ける。音声の複雑な波形のうちに母親の顔を見るのである。
赤ちゃんの音声認識の発達プロセスは、ぼんやりとした全体の認識から、徐々にくっきりとした細部の認識へとゆるやかに時間をかけて整然と進行する。
生まれたばかりの赤ちゃんには言語の複雑な個別音など全く聞こえない。煩雑な個別音を識別し、いちいち一つ一つに捉われていたら、言語の習得など不可能である。
幼児は、まず全ての人間言語に共通の普遍的な言葉らしさを認知する。いかなる言語音声といえども無秩序な音の列ではない。聞こえてくる人間の言語音声が苦痛を催すものであれば幼児は耳を覆う。
やがて言語一般の型認識から個別言語のらしさを見つけ、その型の中にぼんやりとした意味を見つけ、その用意された型の中に徐々に個別音を取り込み、少しずつはっきりとした言葉らしいものの姿が見えてくる。ここまで来ると、猛スピードで一気に言葉の山を駆け上がる。用意された型で言葉を一挙に取り込むとも言えるし、ぼんやりとした型として取り込まれていたものがクッキリしてくるとも言える。
「チュメタイ(冷たい)、チャムイ(寒い)」といった幼児語は、その型認識の段階を示す目安である。やがて「さむい」「つめたい」と言えるようになるための健康な過程であり「チュメタイ、チャムイ」と言っているのを発音矯正する親もいない。型認識の順調な成長を喜ぶ。3~4歳までは子供は天才であり、ここまでは親たちも楽天的な加点法主義である。
以上が、幼児が言語習得する過程で、その内側で行っていると想像される営みである。
従来の言語学の方法は、これと対立する。個々の言語を完成されたものとして外側から捉える。それぞれの言語を部品の全体と考え、まず部品(発音・単語・単語の並べ方・・・)の整理、分類から始める。このような言語観の上に、これまでの言語教育のほとんどがある。発音練習、単語の暗記、文法の練習などを、分類の用語ともども勉強しなければならない。そして、何一つ間違ってはいけない。これは厳しい減点法の世界である。この人工的な方法の強制の中で、大半の人が外国語嫌いになり、自分は言語無能力者だという確信を植えつけられる。
赤ちゃんは天才だ。しかし、大人になったら、もうダメなのか。もう一度赤ちゃんに帰ってやってみよう。3~4つの言葉が飛び交う地域では、誰もがいつのまにか複数の言葉が話せるようになる。言葉が混じることはない。こうしてヒッポファミリークラブの多言語活動が始まった。
ヒッポのメンバーの家では絶えず7つの言葉のテープがバックグランドミュージックのように鳴っている。それを耳を澄まして聴くことが重要ではない。いつも言葉ができるだけ聞こえてくる場を作ることだけで十分。3~4ヶ月もすれば、「これは何語だ」ということは誰でも解る。それぞれの言語の波形の大きな特徴を捉えることができるようになったということであり、人間の型認識の技である。半年~1年もすれば、だいぶ細かい所まで波の形が捉えられるようになり、早く聞こえたスペイン語もゆっくりと聞こえる。そのことにはスペイン語を口ずさみ始める(間違ってはいけないなどと思いもしない)。すると、その言葉を受け止めてくれる仲間が欲しくなる。
何歳になっても人間の中には赤ちゃんが生き続けている。外側からいくら観察しても、赤ちゃんの内側で起きていることを知るには限界がある。自分の中に生き続けている赤ちゃんと出会った時はじめて、赤ちゃんの内側の自然の神秘的な営みが、なだらかな当たり前の事実として見えてくる。
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