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2007年01月11日

モンゴル遊牧民は母系を強く残した両系!?

昨日に引き続き「東洋の父系観念強化」について調べていたところ、モンゴルでも国家成立以前は、『遊牧ながらも母系の色彩が強かった』ことが読み取れる書きかけ記事がWikipediaにありました。以下抜粋

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単于(ぜんう)とは、匈奴を初めとした北アジアの初期遊牧国家の君主号(君主の称号)。
中国で言う王もしくは皇帝に相当する。単于は略称であり、正式には「撐犁孤塗単于(とうりことぜんう)」。撐犁は後のモンゴル語のテングリ(天)、孤塗はやはりモンゴル語のクト(霊威)に相当するとする説が有力であるが、中国が周辺諸民族を懐柔・服属させる際に授けた封号としても用いられた。
単于号を使い始めたのは匈奴であるが、いつ頃に使い始めたのか、語源は何なのかは匈奴自身が記録を残していないために不明である。中国の史書である『史記』「匈奴列伝」に現れる頭曼単于(冒頓単于の父)が初出である。ただし、実際に単于号を創始したのは匈奴国家を強大な遊牧帝国にまで勃興せしめた冒頓単于なのではないかとする説もある。
単于は族長会議にて、匈奴の中心部族である攣鞮氏族(らんていしぞく、鞮は革編に是)から選ばれる。基本的に能力主義で長幼はあまり関係が無いが、原則では末子相続で、同時に母の血統も重視されるのが最低限の条件だった。
※遊牧民の首長家の婚姻に際しては、嫁入りする妻の実家の遊牧集団を構成する牧民と家畜集団の一部が、妻の家産として新たに夫の遊牧集団に合流するため、母系の発言力が大きくなる。そのため、有力な遊牧集団を背景とした母を持つ後継者でないと、遊牧国家内の広範な支持は得られない。
匈奴帝国が内紛により分裂した後で、西晋は単于の称号を鮮卑(元来は“大人”と称した)などの五胡の首長に対する封号として使うようになり、五胡側でも単于を首長号として使うようになった。例えば鮮卑の慕容廆は鮮卑大単于を名乗っている。
その後、モンゴル系の柔然が可汗(かがん)を名乗るようになり、単于は使われなくなっていった。後に可汗が変化して汗(ハーン)となる。

祖先霊信仰の頃までは、祖先と言えば母系であり、守護神信仰に移ってもその名残があったのでしょう。
今のところ、(儒教の流布以前は)父系観念はあまり強化されていない様子です。

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comments

いろんな説があって面白いですね。
何かの縁があってチベットの一妻多夫婚にめぐり合ったので、こちらから感想を述べさせてください。
>この一妻多夫制という婚姻形態を生んだ原因として、花嫁代償が高額であった こと、農耕と牧畜の併業を効果的に営めること などがあげられます。また、チベットの例では、夫が出稼ぎなどにより村を出てしまい妻の面倒をみることができなくなってしまうため、一妻多夫制をとり夫の兄弟が妻の面倒をみるようになりました。
「花嫁代償が高額であった」とは、読んだ本には記載されていなかったので新鮮でした。女の権力の強さはこのあたり(=性的商品価値)にあるかもしれませんね。私も調べたいと思います。兄弟が力を合わせないと捻り出せないくらい高額なら、女が余り、それでも生きていける基盤をも女は持っていたことになり、鬼に金棒って感じですね。
二つ目の「農耕と牧畜の併業を効果的に営めること」については、どう一妻多夫婚とつながるのかよく分かりませんでした。分かれば解説お願いします。
「出稼ぎ…」については成立しそうですが、ミクロネシアでも長期航海中は兄弟が夫の代わりをするしきたりがあるそうで、必ずしも一妻多夫になる必然性が弱い気がします。
一夫多妻制、一夫一婦制については簡単に。以下が???です。
>家父長制が極度に発展し、(略)婚姻は「売買婚」という形をとって表れました。
>一夫一妻制への移行の契機をなしたのは、持参財産制の導入にありました。
「売買婚」の記述にある
>そこでは、貧しい男性は一人の妻に甘んじなければならなかった
ことの方が、よほど一夫一婦制の実態を表しているように思えるのですが。

  • 2007年1月23日 01:42

共同体社会と人類婚姻史 | 婚姻の歴史(概要)

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