2007年04月01日
インドネシア・カリス人の<双系社会>~その形成過程は?
『<双系>とは集団を分割しない婚姻・家族制度では?』を受けて、引き続き<双系>社会について考えて見ます。
カリス人は、インドネシア共和国の西カリマンタン州に住む人々で、現在の人口は約三百万人。川沿いに展開する森を切り開いて、焼畑稲作によって生計を立ててきました。
カリスの親族組織は<双系>的で、カリス社会のメンバーは、父親(ama)と母親(andu)を通じて辿ることができる親族(sinsama)に、同等の社会関係の比重を置いています。
『たんなるエスノグラファー』奥野克巳のホームページの『カリス人について(やや詳しい説明)』から一部抜粋・引用します。
●カリスとは誰のことか?
西洋の文献で、カリスの民族名称が登場する最初のものは、1924年のオランダの民族学者ボウマン(Bouman)のものである。そこには、蘭領スミタウ(Semitau)県とカプアス上流県(Boven Kapuas)の住民の民族別人口が記されている。それによると、カリス・ダヤク(Kalis dajaks)は、カプアス上流県に住む人口699人の民族集団である。
一方で、サラワクのイバン人は、カプアス河上流のウンバロー(Embaloh)やタマン(Taman)とともに、カリスを、ウンバローの人々を指す時の語彙である「マロ(Malo)」「マラウ(Malau)」「マロー(Maloh)」という民族名称のもとに、ひとまとめにして呼んでいた。カリスは、ウンバローやタマンの人々と同じように、前世紀から今世紀半ばにかけて、イバンのロングハウスを転々としながら、銀細工工芸品などを作る生業活動を行った。
【イバン族のロングハウス】
(イバン族については、『先住民族「イバン族」はロングハウスで共同生活。』 『イバン族って首狩族!?』参照)
●カリス社会はどのような社会か?
現在のカリス人の居住地には、一戸建ての家(langko)が、川と平行に点々と並んでいる。ボルネオ島のダヤク諸族に特徴的なロングハウス(sao langke)は、カリス人居住域には、見当たらない(1995年現在、カリス川流域には、5戸から成る一棟が残るだけである)。
カリス人の年寄りたちは、1950年代以降、カリス川流域にあった幾つかのロングハウスは、火災によって焼失したと言う。それ以降、焼け出されたロングハウスの住人たちが、一戸建ての家から成る集落をつくったのだと言う。他のロングハウスの住人も、次第に、集落に降りて一戸建ての家を建設するようになり、ロングハウスは、徐々に、遺棄されたらしい。
カリス社会の長老の一人によれば、カリス人がロングハウスに住まなくなった理由は、
第一に、いったん火事が発生すれば、集合的に居住する人々の家屋、家財道具が焼失する、第二に、首狩り(mangayo)の時代が終わり、ロングハウス居住して、最早集合的に防衛する必要がなくなったというものであった。
現在の一戸建て家屋は、かつてのロングハウスの構造・名称を引き継いでいる。
カリスの高床式の家屋は、階段(tangka)を上がると、そこに、農耕に関わる作業を始めとして、様々な作業を行なうことも可能な物干し場(pasa)がある。表の扉(katanbangan)を開けると、そこはロングハウスの通廊部(tanga sao)にあたる。通廊部から敷居を隔てて、家族のメンバーが寝食を共にする「寝床」(tindo’an)がある。家族のメンバーは、共通のカマド(dapor)を共有し、寝食を共にする人々である。
カリス人の<双系>社会を考える上で、彼らの置かれた外圧状況を大きく2段階で押さえておく必要がありそうです。
A.外圧=同類闘争圧力が高かった時代
この時代は、“首狩り”が示すように同類闘争の圧力が強く働いていた状況。他部族から身を守るために、部族の皆がロングハウスに集まって住んでいたと考えられます。
集団規模は拡大することなく単位集団のままで、婚姻は集団内で行われ、“集団婚”の時代が長く続いたのではないでしょうか。単位集団ゆえに<母系><父系>といった統合様式が必要とならなかったと考えられます。
B.外圧=同類闘争圧力が低下した時代
同類闘争が行われなくなることで、外圧が一気に低下。それに伴い集団規模も拡大したと思われます。そのとき小集団に分割するのではなく、部族全体にそれまでの単位集団の血縁を基盤とする人々の繋がりを拡大・適用したのではないでしょうか。
カリスの人々が「お互いを結びつける(si-jarat-an)」儀礼と呼ぶ、親族のつながりがないところに擬制的に親族関係を確立して、社会関係を円滑にするように働く「擬制的親族制度」があるのですが、そのような制度が人々を結びつけているようです。
ただし、現在はロングハウス→一戸建ての家への転換に見られるように、市場社会が浸透し私権意識が発生することで、集団への収束力は低下過程にあるのがカリス社会の現実のようです。
いずれにしても、一般的に<双系>と呼ばれる集団統合様式は、<母系><父系>の両方の統合様式を持つというより、<集団を分割しない婚姻・家族制度>と捉える方が実態に近いのではないかと思われます。皆さん、いかがでしょうか?(@さいこう)
😀 読んでもらってありがとう!こちらもポチっとよろしく ↓
- posted by sachiare at : 2007年04月01日 | コメント (6件)| トラックバック (0)
trackbacks
trackbackURL:
comments
すごい濃~い内容でした。時間掛かったけど読んじゃいました(´ω`;)ゞ
類別組織制の呼称が現代の叔父や叔母に受け継がれてたのなんか、誰かに教えちゃおう♪とウキウキです。
で、もっと聞きたくなりました(>∀<)
実母子以外で禁婚がないのは日本だけなのですか?だとしたらどうしてそうなったんでしょうか??
日本の婚姻史って、地形や生活習慣と関連付けて考えてみるとますます特殊なんだなぁと関心しちゃいます。その分かなり難解・・・ぜひ教えてくださいっo(´ー`)o
コメントありがとうございます。
日本人の禁婚意識の弱さはなんで?は難問ですが…
これは原始性=本源性を色濃く残存させている証しといえますが、婚姻制との関連でいえば“集団収束性”が強いという特徴に現れます。反面、集団の閉鎖性が強いともいえます。
この閉鎖性を打破する婚姻制が「族外婚」ですが、これさえ「拡大族内婚」とでもいうべき共婚制に変えてしまうくらい、禁婚観が弱い(↓の名前のリンク参照)。
族外婚に転換した背景は同類闘争圧力の潜在的な高まりですが、日本人(縄文人)は贈物で友好関係を維持し顕在化させなかった。つまり長い間、平和を維持してきたので、世界史的な族外婚の発達が貧弱だったと思われます。(ただし弥生以降は状況が変わります。)
さらにその背景に、豊かな自然と島国(=世界の僻地)という地理的要因が寄与しているのではないでしょうか。
softwalk shoes clearance 共同体社会と人類婚姻史 | 日本婚姻史2 族内婚
moncler women’s down coat nantes black 共同体社会と人類婚姻史 | 日本婚姻史2 族内婚
cheap hermes bags australia 共同体社会と人類婚姻史 | 日本婚姻史2 族内婚
共同体社会と人類婚姻史 | 日本婚姻史2 族内婚
comment form