2007年06月21日
「性におおらか」なのに「男女交際が無かった」とは??
日本の性はおおらかだったことは、みなさんよくご存知ですよね それとkoukeiさんの日本に「男女交際」は無かった?!っていうのがイマイチピンと来なくって、ブログ仲間といろいろ話し合ってみました
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日本人は性におおらか 古くは共同体での祭り~その後のヒロバでの交合や、平安時代の歌垣、武士が支配する時代になっても、土着の性風俗は村落共同体には残りつづけ、夜這いは昭和30年代まで残っていました。(そんな状態を近代思想に染まった人々から見ると、男女交際やりたい放題=ふしだらな性関係に見えたんでしょうね )
そこでの性は、安定した共同体に守られた中で、みんなで楽しむ・充足する為のもの。かわりに、みんなの充足を妨げるもの(個人的な好き嫌いなど)は、規範破りとして制限されていました。
それに比べて、輸入された「男女交際」という言葉の意味は、自立した個人(=自立した男と女)がお互いを尊重して認め合う関係。そういうと何だかきれい~ な感じですが、要するに、男と女が、性を取引の材料にして駆け引きをし合う関係ってことですね。安定基盤としての共同体もなく、目的は己の存在基盤の確保。より安定した生存基盤=経済力のある男を獲得するために、性を安売りしない 👿 のが規範。
そう考えると、
>結婚と言えば親が決めた相手か、見合い結婚。私の両親は、一目見てその後は結婚式だったそうです。<
父系に転換した後の、まだ自由恋愛がはびこっていない時代の話ですね。親が決めた結婚と言えども、家同士・親戚一同・ご近所さんみんなの期待を受けて祝福されて婚姻関係を結ぶことにはかわりなく、駆け引きをしなくて良かった分、男と女の充足は得やすかったのでは?実際、セックスレスも少子化もないし、夫婦は死ぬまでセックスしてました
その後、父系(=家)規範に対する反のエネルギーから自由恋愛が広がり、恋愛にとって都合の悪い規範をどんどん崩壊させて、己の欲望を剥き出しのまま駆け引きするにいたったというのが、現在までの流れだと思います。
だから、
>明治以前は「夜這い文化」と言われるように、性におおらかな日本文化でした。何故急変したのでしょうか。<
というのは厳密には間違いで、西洋の近代思想が輸入されながらも、それに染まったのはごく一部の都会の統合階級だけ。大多数の庶民は、つい50年ほど前まで大らかな性を楽しんでいた。それが「遅れている」「野蛮」だとして、政府から禁止されるにつれて(学校教育も影響ありそう)、もともとあった規範が徐々に駆逐されていった、というのが実態だと思います。若者が田舎から都会へ出てゆき、旧い規範が村落共同体の崩壊とともに解体されていったことも、もちろん関係していると思います。
もともがそうだから、あらゆる規範が崩壊して恋愛=反のエネルギーがなくなると、若者の間では「頭(観念)」はともかく、身体(肉体・潜在思念)では、とっくにみんな充足の方向に戻っているように思います。今でも「恋愛至上主義」にはまっているのは、一部のおじさんやモテない人だけかも
自立した個人として「男女交際」しなくても、みんなで充足できる「性関係」が生まれたときからそばにあったのが、もともとの日本人の姿なんですね~ 😀 その血を受け継いでるんだな~と思うと、ちょっと嬉しくなっちゃいます
- posted by mori-ma at : 2007年06月21日 | コメント (3件)| トラックバック (0)
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comments
面白い!日本語って本当に面白いですね!
言語って観点から、文化を見るって視点がいですね。
もっといろんなものが発見できそうですね!UP楽しみに待ってます。
外国人から見ると、日本語ってほんと不思議なようです。
ブログ「棒に怒る日本人」(イザヨ・ベンダソン)にこんな記事があります。「日本語の怪」( http://yahhoo.cocolog-tcom.com/goodwill/2005/12/post_21a7.html )より。
>昔から日本を指して、東洋の神秘なんて言われているが、ホント日本は不思議だ。
先ず、単語として全く違う意味を、同じ言語体系で持ってたり、意味不明の言葉って、日本語ぐらいじゃないだろうか。例えば、・・・・
(中略)
きっと:この言葉、本来は「確かに」と言う意味なんだろうが、実際は「タブン」の意味で「メイビー」とか「パハップス」だ。言葉としてはほとんど反対の意味を持ってるところがすごい。「彼はきっと約束を守ります」と言ったら、「守らないだろう」とも、「守るだろう」とも受け取れるのだ。頼むよ。
ケッコウ:これもそう。OKとNO、両方の意味だ、たまらんなー、もう。「埴輪の2006年モデルいかがでしょうか」「ケッコウ」「お買い上げありがとうございます、消費税込みいちまんごひゃくえんデス」「なに!要らんといっただろ」こういうバトルは日本だけ。<
(引用終わり)
「きっと」や「ケッコウ」など、日頃よく使いますね。
確かに正反対の意味があるのですが、日常会話では相手との話の流れの中で、なんとなく(自然に?)どちらの意味かはお互いに感じ合っているのか、実際はそんなに不都合ないように感じます。
(むしろ、掛詞やシャレなど意図的にひとつの言葉に複数の意味を含ませる場合もありますね。)
ひとつの言葉(音)にもいろんな意味がある。それらを相手との場の中で繊細に聞き分ける。そして、お互い通じ合う。
日本語って、>「察する」=「同化する」<ためのツールなんだな、と改めて感じます。
カッコいい!興味をそそりますね(^m^)
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