2008年03月05日
中世ヨーロッパ農村における共同体の崩壊~三圃式から輪裁式へ~
中世ヨーロッパの農村:支配権力による「作られた共同体」~農業システム「三圃制」と農村運営「共同体規制」について~では、中世ヨーロッパの農村が三圃式農法を行うことで荘園内に共同体的な体制が出来上がっていたことが分かりました(とは言ってもそれはあくまでも領主の意向に基く「作られた共同体」だったようですが。)そのため、休耕・休閑中の耕圃は共同の放牧地として用益され、各自が保有する地条には囲い込みがなされず,家畜が自由に移動できる小さな畦で区別されているだけでした。
それが、貨幣経済が発展していくにつれ、輪栽式農法(ノーフォーク法)が広まり、農地の囲い込みが行われ、共同体的な開放耕地は廃れていきます。今回はその過程を追ってみましょう。
■商業と都市の発展
十字軍によって、多くのヨーロッパ人が初めてヨーロッパ以外の世界に触れた。従軍した諸侯、騎士たちがはイスラム世界にいってビックリする。ヨーロッパでは見たこともないような商品がたくさんあったからです。
当時の世界全体を見渡したとき、ヨーロッパは辺境地域に位置していました。イスラム世界は、インド世界、中国世界とともに最先進地域です。ヨーロッパは大田舎です。だから、十字軍の兵士はイスラム世界の豊かさを見て度肝を抜かれるんだ。
十字軍でイスラム世界を知った人たちはヨーロッパに帰ってからも、向こうの産物にあこがれつづける。
というわけで、ヨーロッパとイスラム世界の間の遠隔地貿易が十字軍をきっかけとして活発になる。イスラム世界から奢侈品を購入するんですが、ヨーロッパからは何を輸出するのか。 ちょうどこの頃から、フランドル地方と北イタリアで毛織物業が発展してくる。この毛織物が、いわばヨーロッパの特産品ですね。
このほかにもヴェネツィア、ジェノヴァ、ハンブルグなどの都市が貿易などの利益で多いに潤い、貨幣経済が飛躍的に発展していきました。
■農民の前進と荘園制の解体
農村にも変化があらわれます。イギリス、フランスでは、農奴身分から独立自営農民と呼ばれる自作農民に上昇するものがあらわれてきます。
身分が上昇する原因は大きく二つある。一つは商業の発展と関連がある。商業が発展するにつれて、貨幣経済が農村にも浸透してくる。貨幣経済に巻き込まれて贅沢を覚えてしまった領主はお金が欲しい。そのために労働地代や現物地代に代わって貨幣地代を導入するようになります。領主の館や直営地で働くことが減ってくるわけだ。
そうすると、領主の農奴に対する人格的な束縛がゆるくなってドライな地主・小作関係に近くなってくる。それから、農業技術も発展して収穫が多くなってきていますから、農奴も一所懸命に働いて年貢を納めた残りを貯めることが可能になります。お金を蓄えた農民はその地位を向上させていきます。自営農民として成長してくる。それ以前の時代には、現物経済中心で農村にはお金そのものがなかったので、お金を貯めることすらできなかったのですから、ものすごい進歩です。
農奴の地位向上には14世紀に大流行したペストも大きく影響しました。ヨーロッパの人口の3分の1が死んだといわれるこの災害により、各地の荘園で人手不足、農民不足が発生し、領主たちはほかの荘園よりもいい条件で農民を集めるようになったのです。
こうした中、発展し人口が増えてゆく都市人口の食料を賄う為と、領主や富農による私権追及が相まって「農業革命」が進んでいくことになります。そして、三圃式農法に代わり、輪裁式農法が次第に普及していきます。
■輪栽式農法(ノーフォーク法)
イギリスのノーフォーク地方では,地主階級による新農法の研究が盛んに行われ,タウンゼントのカブ栽培,タルによる条播機の発明により,穀物に根菜類や牧草をまじえた四圃輪栽式が実施され,コークによってノーフォーク農法として各地にひろめられた。
この方式は、4つの土地をローテーションで休みなく回す方法であり、三圃式と比べて、さらに広い土地と、自前持ちの家畜が必要となる大規模農業です。そのためこれまで休耕地として共同体に開放していた土地もきっちり私有地として区分する必要が出てきました。
地主や農業経営者は,新農法により高率利潤をあげるべく土地の集積を企て,その手段として土地の囲い込み(エンクロージャー)を推進したのである。すでにイギリスでは16世紀に毛織物工業の発展に刺激された第1回の囲い込みがあった。そのありさまはトーマス=モアの『ユートピア』にも記述されているが,この囲い込みはもっぱら牧羊業のためのものであった。しかし,18世紀中葉に始まる第2回の囲い込みは,穀物の増産を企図する地主階級のイニシアティヴにもとづくものであり,一般に議会への請願をへて認可されたので議会エンクロージャーとも呼ばれる。その結果,農民層分解が促進されて,一方に富農層による大土地経営が展開するが,もう一方では共有地や共同放牧権など共同体的権利を失った中小農民は,なお村にとどまって農業労働者になるか,都市へと流出していった。(
(リンク)
こうして、三圃式で領主の意向により一時成立していたかに思えた中世ヨーロッパ農村の共同体は、再び領主の都合により解体の憂き目に会うのです。
- posted by kato at : 2008年03月05日 | コメント (9件)| トラックバック (0)
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comments
“英才教育”はひきこもりやうつの原因の一つかもしれない
新聞などを見ていると、最近、英才教育、乳幼児の習い事がホットな産業となっているらしい。
一昔前は母親だけだったが、どうも父親の英才教育熱がすごいとの話。…
初期人類の化石は殆ど見つからないし、見つかっても貧しい食生活を送っていた痕跡があります。そこから考えても、豊かな生活を送っていたとは思えないのですが…。
>まりもさん
わたしもそう思っていたのですが、・・・
豊か?or 劣悪?
この史観の違いで、大きく人類史の見方が変わってくる重要なポイントだと感じています。
いろんな人の意見が聞きたいところです。
私も人類500万年の食性がどのようであったかは、重要なポイントだと思います。
知能や道具の進化と同様、分る限りの食性(や寿命?)も調べませんか。
>岡さん
どうもです。
知能や道具の進化、食性(や寿命?)など、どんな状況だったのか?押さえなおしてみようと思います。
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