2009年07月23日
後期旧石器~縄文時代の日本の植生と食糧事情 2
前回の後期旧石器時代に引き続いて、縄文時代の植生と食料事情を探って行きたいと思います 😀
縄文時代とひと言にいっても、その歴史は実に1万3500年間!!その間には大規模な気候変動が起きています。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでいるために気候や植生の地域差も大きく、結果として縄文時代の文化形式は地域的にも一様ではなく、多様な形式をもつものになりました。
「えっ~?縄文文化って一つじゃないの??」
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縄文時代
縄文時代は、今から約16,500年から約3,000年前の日本列島の時代区分です。日本の旧石器時代と縄文時代の区分は、土器の出現や竪穴住居などの文化様式の違いによります。(ので、もちろん縄文時代も石器を使用しています。おそらく民族的にも後期旧石器時代人と連続していると思われます)
縄文時代の日本の気候
<2万年前~縄文晩期までの日本の海水面変動・気候変動グラフ>
(↑画像をクリックすると拡大します)
最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると大きく地球規模で温暖化に向かいました。その間に日本列島は100メートル以上も海面が上昇=縄文海進し、島国になると共に、山と海に挟まれた平地の少ない地形へと変化していきます。
その中でも部分的みると、約1万3000から1万年前の気候では数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどの急激な環境変化が短期間のうちに起こっています。(上のグラフの中段の1万年前の凹みの部分ですね)ほぼこの辺りで日本の大型動物は絶滅し、日本の自然環境は大きく変化していきました。
その後も温度は上昇していき、縄文時代前期には(現代の日本よりも+2度高い)ピークに達します。やがて、縄文前期を堺に縄文時代後期まで温度は下降線を辿ります。
これらの大きな温度変化=気候変化が、その都度、日本各地の植生に変化をもたらし生態系に影響を与え、縄文人の文化=適応様式に直結し反映されていきます。
縄文時代の日本の植生(落葉広葉樹林の北上)
縄文草創期当時の日本列島の植生はまだまだ冷涼で乾燥した草原が中心でしたが、次いで針葉樹の森、そして落葉樹も南の島の一部で出現していました。また当時は地学的に見ても、北海道とサハリンは繋がっていて、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州も繋がっていました。まだ瀬戸内海は存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬列島は一つの大きな島でした。
その後、温暖化により海面が上昇した結果、対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって温暖・湿潤な風土がうまれ、日本海には世界に先駆けていち早くブナなどの森林が形成されたと考えられています。
その後の植生は温暖化にともない、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がり北上していきます。また、最も温暖な地域から後を追うように照葉樹林が拡大。やがて北海道をのぞいて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われ、コナラ亜属やブナ属、クリ属などといった堅果類が繁茂していきます。
縄文時代の食生活
環境変化に適応すべく、特に縄文時代草創期・早期にはめまぐるしい数の新な石器や道具(例えば動きの早い小動物を狩る為の弓矢等)が生み出されると同時に、狩猟・植物採取・漁労の三つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させていきます。これが日本における本格的な縄文(森と海の文化といわれる)時代の到来です。
旧石器時代の人々は、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返していましたが、旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には、一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていました。そして縄文早期になると定住生活が出現します。定住生活では、環境の変化に伴い植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていました。
この移動生活から定住的な生活への転換は周辺環境にも大きな変化をもたらします。一時的に居住する半定住的な生活では、周辺地域の開発までに至りませんでしたが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林にクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することになります。
図は縄文人の年間の食事情を表す縄文カレンダー
定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる下草にも影響を与えワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で、安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境=雑木林という新しい環境を創造していくのです。
縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半で、縄文時代の集落の周辺に必ずといっていいほどクリ林が広がっていたのは間違いないようです。
これら森の恵みと、海の幸を組み合わせ、季節に応じて食料を確保する生産様式を確立し、縄文人は定住しつつも以前にも増して豊かな食生活を営む文化を築きあげました 😀 こうして平地の少ない日本の中で、1万6500年間の長きにわたり縄文文化は森と海の狭間で日本列島各地に花開いていきます☆
引き続き次回は縄文時代の地域性に焦点を当てて、縄文時代の植生・食文化を探ってみたいと思います お楽しみに!
- posted by kasahara at : 2009年07月23日 | コメント (6件)| トラックバック (0)
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「塞の神における兄妹相姦についての記号論的考察」から、兄妹相姦伝承の部分を引用してみます。
(以下引用)
(a)群馬県勢多郡粕川村月田
美男美女の兄妹がいた。二人はそれぞれに、夫婦となるにふさわしい相手を探すために国中を歩き回る。二人がいずれも探しあぐねて再び家に帰って来た時、求めていた相手というのは、実の兄であり、実の妹であることに気付く。そして、兄妹は夫婦となった。
(b)栃木県上都賀郡栗野町上粕尾・下粕尾
兄妹がいた。二人とも性器が大き過ぎて誰とも合わないので、相手を探すために、それぞれに諸国を歩き回ったが、結局どちらも良い相手が見つからなかった。そこで、兄妹同士で合わせてみたら、うまく合ったので夫婦になった。
(c)岐阜県吉城郡宮川村中沢上
ある双生児の兄妹がおり、兄は旅に出て行き、妹は女郎になる。幾年か後、兄が旅先で女郎を買いに行き、美しく気立ての良い女郎を見染めて通いつめ愛し合うようになり結婚を約束した。しかし、身の上話で二人が双子兄妹であることを知り、二人は渕に身を投げて心中した。その後、この地方では双生児が生まれると、二人を別々に育てて後に夫婦にしてやると云う。
(以上引用終り)
兄妹婚がタブーとされることなく、日常的なものとして存在していたことがよく分かります。
同じ集団で一緒に過ごし、身近で安心できる兄妹、姉弟が結ばれるのは、個人と言う観念がなければ、共認動物としては自然なように感じます。
兄妹婚の国生みパターン神話が世界的に見られるのは何故かが、気になりました。
兄妹婚をネットで検索すると、国生みパターンの神話が多いのに気が付きます。
イザナギ・イザナミ二神の結婚話に見られる、『洪水型兄妹相姦神話』(洪水によって兄妹が生き残り、やむなく結婚して、はじめ不具児を出産しつつも人類の祖先となる)は
中国・朝鮮・東南アジア一帯に広く、伝承しているようです。
国生み神話パターンで考えると東南アジアとはタブー度が大きく違いますが、アダムとエバの旧約聖書や ギリシャ神話、エジプト神話などヨーロッパやエジプトなどでも広く伝承しており、その意味では世界で共通して兄弟婚神話が存在します。
そう考えると、記事のコメントにあったように、人類の昔では、兄妹婚は普通に行われていた可能性もあります。自然外圧が比較的緩かった採取生産が主流だった東南アジアでは総遇婚が、狩猟が主流だったヨーロッパではボス集中婚、勇士婚でありつつも、始原人類500万年の洞窟時代のボス集中婚に一定兄弟婚が混じっていたなどの共通点が、あったのでしょうか?
近親婚に対する規制は国・地域により様々です。日本では4親等(イトコ同士)の婚姻は許されていますが、同じアジアでも中国、韓国はイトコ婚は法律で禁止されています(韓国では8親等内の婚姻が禁止)。これは儒教の「同性不婚」の考えが大きく影響しています。
日本と同じように、イトコ同士の結婚が認められているのはイスラム教国家です。マホメットがイトコ婚をしていたこともあり、濃い血の繋がりが歓迎されること、集団外の異性と知り合う機会があまりないことから現在でもイトコ婚、ハトコ婚が多いそうです。
欧米では、概ねイトコ同士の結婚は認められていません。これはキリスト教の影響によるもです。そのためフランスなどイスラム系の移民が多い国では様々な軋轢や差別が生まれています。
こうして見てみると、日本を除く殆どの国々が宗教や思想に基づく観念で近親婚を規制していることが判ります。
「塞の神における兄妹相姦についての記号論的考察」から、兄妹婚のタブー視について引用します。
①千夜一夜物語第11・12話
実の妹に恋い焦がれた王子は、ひそかに墓の下の地下に広間を作り、そこで妹と愛し合う。父の王がようやくそこを発見した時、二人は神の怒りの火で焼かれて、抱き合ったまま黒こげになっていた。
②フィンランドの民族叙事詩カレワラ
クツレルボ(トウイレトウイネン)が野原で美しい乙女と出会い、その娘と交わるが、身元を尋ねた時、彼女が行方知れずになっていた実の妹であることを知り、妹は滝に身を投げ、彼もやがて自殺する。
③朝鮮民話1
孫晋泰氏の「朝鮮の民話」には、大洪水が起こり、二人の兄妹だけが高い山に流れ着いて生き残ったが、二人は神意を伺うために、それぞれに雄臼と雌臼を山から転がすと、臼の両片が谷底でぴったりと重なってつながっていたので、神も特別に許し賜うものと考え、兄妹は結婚することにした。あるいは、別々の山の頂で青松葉を燃やすと、その煙が風もないのに空中で一つに合体したので結婚することにしたと云う話を記している。
④朝鮮民話2
また、同書には、姉弟が連れだって峠を越えようとした時、俄雨で姉の単衣がぴったりと肌に張り付き、それを見て弟は急に激しく春情をもよおすが、そのことを恥じて石で自らの陰茎を打ち砕き自殺した。姉は「云えばいいのに」と悲しんだので、その峠は今も「云えばいいのに峠」と呼ばれていると云う話を記している。(これは、我が国の峠道などにある塞の神にも通じる話である)
⑤朝鮮民話3
今村鞆氏は「朝鮮風俗集」に、チャンスン(長生)の由来譚を述べている。チャンスンは、我が国の塞の神と同じように村境に立てられ、天下大将軍、地下女将軍とそれぞれに書かれた男女一対の木偶のことである。張という大臣が王に「肉親の兄妹は決して交わることはない」と云い張ったので、王は「では、お前の息子と娘を深山に放せ」と命じたところ、やがて二人の間に子供が生まれる。そこで、彼らは都から追放されて死んだ。チャンスンはその魂を慰めるものである。あるいは、別の話として、張という宰相が妻を失い、淋しさのあまり娘と通じたので、王は張を処刑し、見せしめのために、その像を立てるように命じたのがチャンスンであるとする。(チャンスンは朝鮮半島における塞の神の形と考えられる。そこには、塞の神と同じように兄妹相姦の物語がからむ。しかし、何と暗い陰惨な話であることか)
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