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2009年07月14日

中山太郎の「日本婚姻史」から~団体婚~☆1☆団体婚って?

20090203_623006.jpg
みなさん、こんばんは。すっかり暑い夏になってきましたね
さて、中山太郎の「日本婚姻史」から、 第一章 共同婚 をお届けしてきましたが、今回から 第二章 団体婚 の紹介に突入します
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※上の絵の後方にあるのは浅間山です。何でこの絵が 理由は後半を読んでいただければ分かります

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まずは、団体婚とは何か?なぜそれを追究するのか?筆者の中山太郎の想いが書かれている冒頭部分をご紹介します。

第二章 団体婚
我国の婚姻史上に団体婚(部落の男子全体が、部落の女子全体と結婚すること)が存したか否か、この考察は共同婚制の存否と同じように、かなり困難なる問題たるを失わぬのである。しかも最近の婚姻学者はほとんど言い合わせたように、団体婚というがごとき婚制は、全世界のいずれの社会においてもかつて存在したことを発見せぬとて否定している。
もちろん、これらの否定説にはそれぞれ相当の理由が提供されているけれども、しかしながら私の信じているところを簡単に言えば、婚姻の進化は共同婚から一躍して特定婚―すなわち一妻多夫なり、一夫多妻なり、または一夫一妻なりに到達したものではなくして、必ずやその中間を繋ぐべき婚制が存在したに相違ないと考えている。
換言すれば群衆婚ともいうべき共同婚から、個別婚ともいうべき特定婚に推移する過渡期に行われたものが、ここに言う団体婚であらねばならぬと考えるのである。

 なんと、昭和の初めのこの頃から、学者というのは旧観念に囚われて事実をまったく見ようとしない困った存在だったのです 筆者の考えを裏付ける事例が、次に続きます。

 もし一部の学者が主張するがごとく、団体婚なるものが全く社会に存在せぬものであったとすれば、本邦の土佐国高岡郡津野山郷北川村の太古味部落に行われた婚制のごときは、いかなる名称を以ってこれを分類せんとするのか、寡聞なる私には団体婚の名称を措いては、他に適当なる術語を発見するのに苦しむのである。
土佐国高岡郡津野山郷北川村の太古味部落
すなわち同部落の村民は、江戸時代の末葉まで、世間で言うところの結婚なるものを知らず、ただ少壮の男子が夜間婦女のある家に泊まりに往くのみで、元より一定したる夫婦というものはかつてなく、今夜と明夜の夫は異なり、前晩と翌晩の妻は替るという有様であった。
それ故に女子を持てる家には相続人あるも、男子を持てる家には相続人とてはなく、一部落二十余戸の民家はことごとく親戚なるか、他人なるか殆ど区別もつかぬような生活を続けて来たのである。
それを文久年間に北川村の庄屋吉村寅太郎が村民を諭し、一時に十九組の夫婦をつくり婚姻式を挙げさせたということである。

 江戸時代の末期まで、結婚or夫婦という制度・観念を知らない村落共同体が、実際に存在していたのです 北川村の庄屋がどうやって諭したのかは謎ですが、同時に19組の結婚式とは、さぞかし当事者たちは、意味も分らずびっくりしたでしょうね。
さらに、特殊な外圧状況から生まれた婚姻制度もあります。

上野国吾妻郡嬬恋村大字鎌原
天明三年の浅間山の噴火に埋没して村民の大半が死んでから、生き残っていた男女が誰彼とは言わず縁を結んで復興のために苦しんだ。それ以来婚姻は殆ど六十戸の村中のみで行われ、互いに親戚でない家は一軒もない。
年上の男は総て何々兄と言い、ずっと年の違った人は総て何々おんじいと呼びかけるそうである。
かかる類例も今のうちに各地に亘り克明に詮索したら、まだ何程でも数えることができようと思うが、私にはかくのごとき婚姻制を呼ぶには団体婚の名を以ってするのが、最も相応したものであると考えられてならぬのである。それ故に私が学会では否定されているけれども、敢えて団体婚を説く所以なのである。
しかしかく信じかく考えてはいるものの、我国のごとく古代の文献にはなはだ乏しい国柄にあっては、文献に徴して団体婚の存在を真正面から証明することは頗る困難である。加えて共同婚と団体婚とは時代において前後の別があり、地域において広狭の差があり、人員において多寡の違いがあるけれども、この両者を厳然と区別する資料は極めて貧しいのである。従って、ここには土俗なり伝承なりを拾い集めて、側面または裏面から団体婚の存在したことを証拠立てるより外に致し方がないのである。
されば私の記述もことごとく靴を隔てて痒きを掻くがごときものに終わるかも知れぬが、老勇を鼓し敢えて筆を運ぶこととした。幸いに識者の高教を仰ぐことができれば本懐である。

 火山の噴火で畑や田んぼも埋まってしまって作物が作れない悲惨な状態。何よりも、共同体の仲間の大半を失うということは、人々の活力を奪う大事件だったに違いありません。それを乗り越えるために(新たな労働力としての子供を生産するという意味でも)、“生き残っていた男女が誰彼とは言わず縁を結んで”、男女解脱共認を活力源にしながら、復興に向かっていったのだと思います。
まさに、外圧状況によって集団内の婚姻のあり方も変わるんです。
しかし、文献資料がないからと言って、そんな婚姻制度はあり得ないと主張する学者たち。資料はないけれど、分かるだけの事実を集めて仮説を立てて考えているのが中山太郎氏。どっちがみんなの役に立つ認識を生み出せるかは一目瞭然ですね 😀
次回からも、色んな事例をお伝えしたいと思います

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>哺乳類で強化した性闘争本能を全面封鎖した人類は、共認機能・観念機能を使った新たな性関係を作りだし、男女の役割分化を行い、生物の性の本質である「変位と安定」「闘争と生殖」を進化させていきます。
これは、僕の仮説ですが、人類の「性」と観念機能の獲得→発達の間には密接な関係があると考えています。
脳内神経伝達物質「エンドルフィン」から考えられる仮設です。
エンドルフィンは、幸福感をもたらす神経伝達物質で、脳内モルヒネと言う呼ばれ方もします。ランナーズハイでよく知られるように、肉体を酷使した場合などに分泌されますが、人と人との親和やセックスにおいても分泌され、幸福感をもたらします。
このエンドルフィンは、同じ脳内神経伝達物質であるドーパミンを間接的にコントロールします。ドーパミンも充足感をもたらす物質ですが、エンドルフィンが「静的=幸福感や安心感を得る」興奮物質なのに対し、ドーパミンは「動的=文字通りの興奮感覚や爽快感」をもたらす物質です。
ドーパミンは、脳内でも「快感回路」と呼ばれるA10神経回路に働きかけますが、このA10神経回路は、脳幹中枢などの旧い脳から、観念を司る大脳新皮質まで繋がっており、旧い脳と新しい脳を繋ぐ神経回路となっています。
今回の記事で書かれている、人類の「本能・共認・観念の3層塗り重ね構造」は、このA10神経による旧い脳と新しい脳の繋がりがもたらしていると考えられます。
なお、ドーパミンは、脳内で過剰分泌がなされないように、GABA神経回路と呼ばれる別の物質によって分泌コントロールがなされていますが、エンドルフィンはこのGABAの分泌を抑制することで、ドーパミンの分泌をももたらしています。
ドーパミン単独の分泌によるA10神経回路の刺激には、GABA神経回路による制限がもうけられていますが、エンドルフィンによるドーパミンの間接コントロールは、GABAを制御してしまう為に制限がなく、ドーパミン単独の刺激よりも安定的かつ恒常的にA10神経系を活性化することを可能にするのです。
ここからが仮説になりますが、極限時代における(極限的な自然外圧から生き残る為の)共認回路(=共認充足)への可能性収束、そして性充足への可能性収束が、エンドルフィン分泌をもたらし、ドーパミン神経回路=A10神経の安定的かつ恒常的な活性化をもたらした。
神経回路は使えば使うほど=活性化するほどに発達していくので、A10神経の活性化は、旧い脳と新しい脳の繋がりをより強固にしながら、それぞれの神経回路も発達させていく。
先述したように、A10神経は観念回路の中枢とも言える「大脳新皮質」さらには、「前頭連合野」に繋がっているので、A10神経の恒常的活性化は、観念回路を発達させることに繋がります。
つまり、極限時代の共認充足、そして最大の共認充足源となる「性」が、エンドルフィン→ドーパミン=A10神経回路の活性化をもたらし、観念機能の発達をもたらしたのではないかと考えられます。

  • crz2316
  • 2009年10月17日 13:19

>では、性闘争を封鎖した人類の性とは?どうのようなものだったのでしょうか?
人類が他の動物と違う点は観念機能をもっていること。
この観念機能が最大の武器であり、人類の性もこの観念機能を高度化させることと繋がっていると考えられます。
>自己と対象(相手)の境界を取り払って融合してはじめて、世界=中身が拡がります。(“自分”にしがみつけばつくほど、中身が無くなってゆくのはその為です。)
そこでは、不安や警戒心は邪魔になります。
不安は自我を生み、自我は己を守ろう(正当化しよう)とし、己を守ろうとする自我は警戒心(他者否定)を生み出します。
セックスは、プラスの心と心の交感です。それは抽象的な話ではなく、本当に、期待=応望と肯定視の心の交感が出来れば、一切の肉体的接触も無く「イク」ことができます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=471
この投稿にあるような、対象性の広がり・自我の制御と「性」の関係性について追求してみたいと思います。

  • chai-nom
  • 2009年10月17日 13:38

>極限時代の人類は、この凄まじい外圧の中で性闘争を全面封鎖
想像ですが、それは現代のような個人の好き嫌いを超越した、全面の肯定性に包まれた男女関係だったのではないかと思うのです。それが集団の結束力を強くし、過酷な極限時代を生き抜く原動力になったのでしょうね。

  • tani
  • 2009年10月17日 14:36

>凄まじい外圧に晒され、共認機能(更に観念機能)を唯一の命綱として生き延びた人類は、共認を破壊する性闘争や自我を五〇〇万年に亙って全面封鎖してきた。
この共認機能とは、代々木忠の『プラトニック・アニマル』で紹介さsれているチャネリングに近いのではないでしょうか?
共認(応合)回路を究極まで鋭敏にし相手の期待や性的イメージをキャッチするチャネリングと、同類を超えて自然対象からの“声”をキャッチする観念原回路。

  • Hikaru
  • 2009年10月17日 18:40

>人類の最先端機能たる観念機能は、あくまでも本能回路や共認回路を充足する為にある。もっと簡単に言えば、現実課題に応えるためにあり、行動を導く為にある。
これは非常に重要な点であろうと思います。
しかし、観念機能の獲得以降、必ずしも人類はそれを最大限活かしきれていないのもまた現実であるように思います。
例えば、Hikaruさんがコメントされている、所謂「チャネリング」のようなことも含め、観念内容(制度・規範etc.)次第では可能にもなれば、不可能にもなる。恐らく、極限時代の人類はできたのでしょうが、現在は殆ど不可能ではないでしょうか。
そう考えていくと、やはり、極限時代の人類(や未開部族)の婚姻様式に学ぶのと同時に、現在でも追求されている代々木忠氏の言葉や経験から学ぶことも重要であるように思います。

  • doUob
  • 2009年10月17日 18:59

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