2012年08月31日
【世界の宗教から見える男女の性】-4.キリスト教③~婚姻に介入し「結婚」を秘蹟(儀式)まで高めて普及活動をした~
キリスト教と結婚
現代では、日本人までが宗教に関係なく、結婚式を教会で挙げたりします。
しかし初期の中世でのキリスト教は 結婚 に関与していませんでした。
キリスト教では、婚姻を神が認めるものとして教会で結婚式を挙げるようになったのは12世紀になってからです。
それ以前の結婚は、世俗的な風習で結婚を行い、神の許しなど必要としていなかったのです。
しかし、12世紀以降のキリスト教は、「結婚」を7つの秘蹟の一つとしたのです。
(「秘蹟」とは、神と人間を仲介し、神の恵みを人間に与える儀式のこと。)
12世紀頃からキリスト教は男女関係に関与し始めますが、どのようにしてキリスト教が「男女関係~結婚」を支配して言ったのでしょうか?
具体的に見てみましょう。
当時(8世紀頃)は、次の三つの文化が混在していました。
ローマ文化 =頽廃した「個人の自由な男女関係」。不倫文化・快楽主義の蔓延。
ゲルマン文化 =役割(跡継ぎ作り)としてのSEX。家父長が相手を決める。
キリスト教 =「愛」による結婚を定義。離婚、重婚を禁止。SEXは跡継ぎ作りのみとし、出来るだけ避ける。
そして、キリスト教をゲルマン人に布教する為に、試行錯誤を繰り返していました。
布教に難儀したのが、男女関係、結婚の考え方の違いでした。
「西洋中世の男と女」 阿部謹也著 より
■キリスト教国家を作るために
ゲルマン人に対してキリスト教を布教するためには妥協しなければなりませんから、教会側も色々な工夫を凝らします。そこでランスのヒンクマーク(806~882)は結婚について新たな定義づけをしました。
その定義は、「同一身分の自由な人間同士の正しい結婚とは、適切な婚資を持った女性が、両親の許可を得て、公的な結婚式において自由な男と結ばれ、その後、性行為を営むことである」
ローマの伝統とゲルマンの伝統とを一致させようと努力した結果生まれたものです
・・・・中略・・・・
当時、教会は未だ結婚に介入する準備が無かったのです。聖界の指導者は結婚に付いて色々意見を述べますが、未だ結婚は完全に世俗の行事であって、教会の管理下には無かったのです。ゲルマン人の父系を引くフランク王国の指導者たちも、自由に自分たちの結婚をとりしきっていました。
キリスト教は12C十字軍の頃に最盛期を迎えますが、8世紀頃まではキリスト教が勢力を付けて行く途中で、男女関係は未だゲルマン人の世俗文化の支配下にあったのでした。
つまり、後継者の子作りが重要課題である。子作りSEXは役割でもあり、快楽を得られる楽しいもの。
お互いの家父長が同意して、女が婚資を持参して結婚し、女の支配権は夫の元に下るという、略奪婚の名残が残る婚姻制度です。
しかし、キリスト教が10世紀頃から、男女関係に強引にかつ、策略的に介入してきます。
そのキリスト教の婚姻への介入という典型的な出来事を紹介します。
「西洋中世の男と女」 阿部謹也著 より
フランス王フィリップが破門されたという事件です。フィリップはヨーロッパ史上初めて破門された国王だと思います。その理由は、フィリップが妻がいるのに他の妻を奪って、二重に結婚したことが原因だとされています。正妻を追い出して家臣の妻と結婚した為なのです。
・・・・中略・・・・・
そこにシャトルの司教イヴォ(1040~1117)が現れます。彼は大変有能な男で、この結婚に文句を付けました。一介の司教に過ぎないのに国王の結婚に文句を付けたのです。
・・・・中略・・・・・・
この問題に関しては教会関係者のほうが権限を持っている。フィリップの最初の妻との離婚する権利がフィリップにはないから、第二の妻を娶る権利もない。
・・・・中略・・・・・
こうした事態を、フィリップはまったく意に介さず結婚式を行って、最終的には破門を招いたのです。
・・・・中略・・・・・・
先祖伝来の領地と王冠を、彼は自分の正当な息子に伝えなければならなかったのですが、1092年の時点では、彼には12歳のルイがいるだけで、しかもこの子は病弱だったのです。
中世における死亡率の高さを考えますと、息子一人ではとうてい安心できません。正式な妻からはもう子供が生まれないことは分かっていた。
・・・・中略・・・・・・
フィリップも単にベルトラードに野心を持っていただけなら、いくらでも手に入れる方法はあったのですが、正式な結婚式を挙行し,司教も司祭も招いて行ったということは、彼の王侯としても義務感ゆえにしたことだけど、デュビーは解釈しています。
フィリップは自分を罪人だと思っていなかったし、世間も彼を罪人だと思っていなかった。
荘厳なフィリップ一世像 元妻がいるのに結婚をしたと非難されているフィリップ像
※画像は「直球感想文」http://xmugix01.exblog.jp/i2/12/よりお借りしました
このフィリップ国王の重婚を非難しての破門事件を皮切りにキリスト教は婚姻に介入してきます。さらに「神学」による理論構築で、男女関係、結婚はキリスト教の支配下となっていくのです。
理論構築の中心の一つが「結婚の秘蹟」です。
「西洋中世の男と女」 阿部謹也著 より
いずれにしてもキリスト教会は、本来は世俗の出来事であった結婚を、教会の支配下に置こうと努力しました。結婚式は神の名において、教会が執り行うものだというわけです。この点に関しては聖アウグスティヌスが『結婚の秘蹟』という書物の中で秘蹟という言葉を使ったので幾分曖昧な点がありますけれども、やがては秘蹟だというふうになっていきます。神の恩寵が目に見える効果的な印、これが結婚の秘蹟だとペトルス・ロンバルドゥスはいっています。
いずれにしても十二世紀の末頃には、結婚は秘蹟として位置づけられています。本来男と女の結合としての世俗の形であった結婚に、聖なるものがおおいかぶさるということになったのです。
・・・・中略・・・・・・
結婚式を教会が行うことによってどのような結果が生まれたのかを見ますと、一夫一婦制が確立する方向がはっきり見えてきたことだと思います。それと同時に、近親結婚に対してもきびしい姿勢がとられることになりました。
8世紀までは、フランク王国でも世俗的な結婚式で結婚をしていた。
キリスト教の策略で12世紀には結婚は秘蹟として教会の管理下となった。
「性」の考え方もその移行の中で、「子作り、快楽」のSEXから、キリスト教の「罪なる行為」のSEXと考えられるようになっていった。
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◎なぜキリスト教は「結婚」を支配下に置いたのでしょうか。
当時のキリスト教は、布教を広めることでその勢力(権限、財産)を増やして行きました。そしてキリスト教は、領主、国王などと私権獲得の勢力争いをしていました。
そこで、キリスト教は勢力争いの切り札として【婚姻支配】を使ったのです。
つまり「神の前での結婚以外は正式な結婚ではない」と宣言することで、正式な結婚以外での子供は継承権がないとなりってしまい、家が滅んでしまいます。
その結果、みんなが教会での「秘蹟としての結婚」を行うように誘導されて、生まれてきた子供もキリスト信者と成りキリスト教の配下と成って行ったのです。(キリスト教の見事な戦略です)
そしてキリスト教は「秘蹟としての結婚」をする事により、欧州全体で国王よりも強い権力集団と成って行き、十字軍を先導するころにはキリスト教の最盛期を迎えることになるのです。
しかし十字軍の失敗は、キリスト教の威信が傷つき、勢力が弱体化し始めます。
十字軍でもたらされた商業の発展は、近代国家の国王に引き継がれてゆき、キリスト教は私権権力闘争の第一線から脱落してゆきます。(キリスト教徒の金儲け部隊≒金貸し勢力が、キリスト教から近代国家に、乗り換えたのだと思われます)
その後も権力闘争、私権拡大を目的とした侵略の戦術として、「婚姻を取り込んだ」キリスト教の布教(≒布教)は続き、世界中で「一対婚」「SEXの否定視」の文化を撒き散らすことになったのです。
江戸時代まではおおらかな性文化であった日本が、「性を隠微で隠すべきもの」と感じて、「一対婚」~「教会で結婚式」と成ったのも、8世紀における権力闘争のキリスト教の布教戦略が端を発しているのです。
- posted by koukei at : 2012年08月31日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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