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2020年01月07日

西洋婚姻史=性の覇権闘争史②

西洋婚姻史=性の覇権闘争史①に続き、中世の結婚、14世紀の結婚、プロテスタント主義の影響、近代の結婚をリンクより引き続き紹介します。

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■中世の婚姻
中世を通じて、婚姻の管理は宗教的権威の任務と考えられていた。教会は、婚姻のような宗教的意義をもつ行為は、教会の祝福が必要であると要求した。そこで結婚する本人たちは教会に集まり、そこで司祭の祝福を受けることが慣習となった。しかし婚姻締結そのものは当事者間の私的契約として残った。この婚姻の合意は、それに続く肉体的結合により秘跡にまで高められ、かくて婚姻は不解消のものとなる。これは1917年制定の教会法に基づき、今日もなおローマ・カトリック教会の法として定められている。教会の扉のところで司祭の祝福を受ける慣習は、その後宗教的義務として確立された。その正式決定は、1215年の第4回ラテラノ公会議で発布された。しかしこの布告に対する違反は、教会からの懲戒と処罰をもたらしただけで、婚姻そのものを無効にするものではなかった。

■14世紀の結婚
若者と家族が結婚に同意すると、婚約式がとり行われた。それは指輪の交換によって確認された。指輪は2つ用意され、婚約者は互に相手の指輪を受けとった。これは単なる指輪の交換ではなく、法的効力をもった。
契約の監視人である教会は、典礼定式書に従って婚約を公にする役割をもった。婚約者である二人は、両親、友人とともに教会に行き、戸口で主任司祭の前で婚約を誓った。そして40日の間「婚姻」を公示したあと、その教会の戸口で結婚式が行われ、そのあと教会の中でミサが行われた。

■プロテスタント主義の影響
1563年のトリエント公会議で、婚姻の有効性の必須条件として、結婚式は主任司祭ないし教区司教により、また最低2名の証人を必要とするという決定が下された。かくして、無式結婚も内密婚も不可能となった。しかしこの教会法の宣告が適用された地域は、ローマ教会に忠誠を捧げる範囲に限られた。
16世紀の宗教改革により、婚姻を民事的な契約であるという考え方が強くなった。この影響を受け、イギリスではクロンウェル治下に出された民事婚条例(1653)で、婚姻する男女が判事の前で誓うことで法的に有効となった。その後変転をみたが、1753年の婚姻法改正によって、婚姻が有効であるためには、婚姻予告の公示を行い、その後にイギリス国教会の司式規則にのっとった儀式を行うことが必要になった。

■近代の結婚
17世紀までのヨーロッパの国々にとって、婚姻は明らかに宗教的な出来事であった。しかしイギリスでは、1836年の「婚姻法」によって聖職者でない登録官の面前でも行われるようになった。だがこれにより、当事者は特定の事項を記載した通知書を提出し、登録官の面前で宣誓するのであるが、教会での宣誓とは違い、登録官事務所の挙式では「汝を妻とする」と述べるだけである。ただし統合婚姻法(1949)により、イギリス国教会で挙式する場合には、「事前に婚姻予告の公表をしなければならない」など伝統的な規定がある。
イギリス植民地であったアメリカでは、コモン・ロー婚、つまり両当事者の合意だけで成立する無式婚姻であった。コモン・ロー婚はイギリスで1753年禁止されたことがあるが、植民地であるアメリカには適用されなかった。1776年アメリカが独立して以来、婚姻は民事契約とする考え方が一般的で、今日ではアメリカのほとんどの州で、このような法令が制定されている。合衆国では一般に、結婚式を挙げた州の法律に従っていれば、住所地の法律と違っていても婚姻の効力は有効とされる。
ヨーロッパでの「民事婚」の確立は、フランス革命によるものであり、1791年の革命憲法には「法律は婚姻を民事契約とのみ認める」と宣言された。そこでは、聖職者でない市長、村長の面前で行われる儀式以外に有効な婚姻はないものとされ、民事婚が義務づけられたのである。民事婚の義務は、その後フランスからヨーロッパの他の国々へと広がっていった。
(引用終わり)
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