2021年01月26日
恋愛観念は、日本にどのように広まっていったのか?
かつて日本では、お見合いや親が決めた相手と結婚するというのが当たり前でしたが、現在は結婚相手は自由に決める、自分で決めるということが一般的になっています。
これは、西欧で生まれた「恋愛」という観念が明治時代に日本に輸入され、大正時代には「大正ロマン」という言葉とともにロマンチックな憧れの対象と受け止められ広まっていったことによります。
では、恋愛観念はどのように人々に広まっていったのでしょうか?
その時代の様子を紹介します。リンク より
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大正時代は、1,912~1,926年の14年間と、日本の歴史の中ではとても短いものですが、この14年間で日本は大きく変わっていきます。大正時代を前後して、都市を背景にした大衆文化が成立しました。現在まで続く生活様式の殆どが、大正時代にルーツのあるものが多いことも事実です。
●町の変化
大正時代には、町の様子も変化を遂げ、町から街が形成されていきます。
東京では丸の内や大手町に、エレベーターがついたビルディングの建設が相次いで、一大オフィス街へと形を変えていきます。それまでは農村だった渋谷や世田谷に下町で焼け出された人々が移住し、単なる盛り場だった新宿や渋谷が副都心へと姿を変えていきます。
大阪では非常に数多くの私鉄網が完成し、とりわけ阪神急行電鉄の巧みな経営術で、住宅衛星都市郡が大阪平野に出現しました。東京帝大を卒業した半数の就職先が民間企業になり、『サラリーマン』が大衆の主人公となります。明治時代まで呉服屋であった老舗が、次々と百貨店に姿を買え、銀座はデパート街へと変っていきます。大正時代最後の年には、神宮外苑野球場ができ、東京六大学野球の勢いが益々盛んになります。
●世の中の変化
都市交通の桧舞台に自動車がのしあがり、円タクなども登場して、陸運手段として、旅客・貨物を問わず、大きな地位を占めるようになります。
食文化では洋食が広まり、『カフェ』や『レストラン』が急成長を遂げ、飲食店のあり方が新しいものへとなっていきます。
欧米式の美容室やダンスホールなども都市部においては珍しいものではなくなりつつありました。男性の服装も、和装から洋装へと変化します。
一方、地方の農村や漁村では、こうした近代的な恩恵を受けることができず、都市部との差が出てしまったのも大正時代の特徴と言えるでしょう。
●新聞
新聞の部数も数多くなり、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞が100万部を突破して東京に進出し、読売新聞も対抗して成長を果たします。朝日、毎日、読売という今日の三大紙の基礎が、こうして大正時代に築かれました。
●活動写真
活動写真とは、現在でいう映画です。初めて活動写真が公開されたのは明治時代ですが、大正時代に入り、こうした娯楽が徐々に充実していきます。電気館という洋画の封切り館として親しまれていたこの映画館では次々と作品が輸入されました。
●ラジオ
大正時代には、日本で始めてラジオ放送がされました。1,925年3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(現在のNHK東京放送局)が、京田武男アナウンサーによる第一声が、東京・芝浦の東京高等工芸学校に設けられた仮送信所から流されました。
この一言からラジオ放送がはじまりました。
大阪放送局では6月1日から仮放送を開始し、名古屋放送局では7月15日に開始しています。
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このように「新聞」「ラジオ」「映画」が急速に拡大した時期でもあり、それらは集団規模をはるかに超えた国家や外国で、今、何が起きているのか?という社会認識欠乏に応えた記事(ニュース)を提供するとともに、娯楽欠乏に対して、新しい娯楽を提供して急拡大したものです。
新しい娯楽とは、新聞の連載小説、ラジオの歌謡曲、映画(とポスター)etcであり、その中身は、「恋愛」「純愛」モノが大半で、心に響くように美しくわかりやすく表現され、大衆に受け入れられていきました。
今から100年前、「新聞」「ラジオ」「映画」という洗脳機関が日本に登場し、「恋愛」「純愛」が教え広められていったのです。
- posted by KIDA-G at : 2021年01月26日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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