2021年04月08日
白人(欧米人)の意識構造の解明(3) 遊牧部族が交易に転じると何が変わるのか?
近代世界は白人の世界征服によって形成されたと言っても過言ではありません。そして、白人(印欧語族)の出自は、狩猟部族→牧畜部族→遊牧部族→交易部族という段階を経て略奪集団に至ったという流れを、どの集団も例外なく経ています。
前回の記事(リンク)では、牧畜部族が遊牧部族に転換したことによって、
①それまでの単位集団とは違う、牧畜母集団と複数の遊牧男集団という重層集団(社会)がはじめて形成された。
②婚姻制が母系婿入り婚→父系嫁入り婚に転換し、同時に母権集団→父権集団に転換した。
を、扱いました。
今回は、遊牧→交易に転換したことによって、集団の意識がどのように変わったをテーマとします。
るいネット『なんでや劇場 交易によって何が変わったのか?』(リンク)より
◆洋の東西を問わず、遊牧集団のほとんどは交易集団でもある。なぜ、遊牧集団が交易を始めたのか?
前提条件として、交易の対象品目は乳製品や毛織物など加工品であり、それは母集団の女たちが作っていたものである。つまり、母集団がまだ残存している時代から交易が行われていた。また、交易が成立するにはお客が恒常的に存在している必要があり、遊牧部族のお客である農耕部族が周辺に存在していたはずである。
遊牧集団が交易を始めたのも、人口増によって遊牧だけでは食えなくなったからであるが、それ以前に周辺の農耕部族の人口増によって至る所に農耕集落が生まれ、定常的な交易が可能になったことが前提条件としてある。6000年前にイラン高原で交易専業のエラム文明が登場したことを考えると、交易が始まった時期は6500年前頃と推定される。
いずれにしても、西方のイラン高原~カザフ草原で交易が始まり、遊牧兼交易が常態化すると、中央アジアの草原の帯を伝ってトルコ族→モンゴル族→ツングース族へと遊牧兼交易がたちまち伝播していった。こうして6000年前には中央アジアの草原の帯全体で遊牧兼交易がが当たり前になった。そう考えると、アジアの東の中国でも殷を建てた部族が「商(商人の意)」と自称していたことも説明つく。
◆遊牧部族が交易に転じると何が変わるのか?
交易に転じると、損得・利益という意識が登場する。元々食えないから交易を始めたわけだから、そこには部族の命運がかかっている。こうして部族全体が利益収束し、利益拡大(蓄積)が部族の統合軸となってゆく。これを唯利収束(唯利統合)と呼ぶことにする。
また交易は損得のやり取りであり、利益第一に染まっていることも相まって、著しく他者に対する攻撃性を磨いてゆく=高めてゆく。こうして唯利収束と攻撃性故に、他部族を騙してもよいということになり、騙しと交渉術に長けてゆくようになる。
それだけではない。遊牧兼交易部族は貴重な財を運ぶ。利益第一となった彼らにとっては財が獲られないかが一番の心配事となり、利益第一が故に警戒心を膨らませた彼らが武装するのは必然であった。
元々狩猟部族であった彼らは、遊牧集団であったころから狩猟or猛獣から身を守るために弓矢や槍などを携帯していたが、それはあくまでも他動物を対象としたものであった。ところが、交易部族にとって武器は同類(人間)を対象としたものに変わる。従って、弓矢のような目立つ武器ではなく、ナイフ・短剣といった目立たない武器が登場したであろう。ナイフや剣は戦争が始まって開発されたのではなく、既に交易集団の段階で携行されていたと考えるべきであろう。
彼らは、元々は遊牧集団で、それだけでは食えないので「遊牧集団」兼「交易集団」兼「武装集団」という三位一体の集団と化したわけだが、武装集団化したことによって「力の原理」が全面に出てくることになり、その結果として、父権転換が加速される。遊牧男集団の「女よこせ要求」から父権転換した段階では、母権VS父権の綱引きがあったはずだが、遊牧集団が交易を始めた段階では一気に父権に転換したであろう。
◆略奪闘争(戦争)の前夜
交易が始まり集団の統合軸が利益第一となり、それに武装が加わる。これは富族強兵共認に他ならない。つまり略奪闘争の前に既に遊牧兼交易部族は富族強兵共認で統合されている。
また、遊牧→父系転換の段階で自我は芽生えているが、交易集団の自我の強さはその比ではない。利益第一や富族強兵の共認が集団の統合軸となったことによって、成員の意識は強く自我収束していくことになる。ここまで来ると、いつ略奪闘争(戦争)が始まってもおかしくない状態となる。そこで乾燥化→食糧危機という契機が生じれば、簡単に戦争が始まったであろう。
- posted by KIDA-G at : 2021年04月08日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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